スーパーで会った同級生と、今の私
夕方のスーパーで、レジに並んでいたら、後ろから肩を叩かれた。振り返ると、高校時代の同級生だった。マスクをしていたけど、目元ですぐにわかった。二十年以上会っていないのに、向こうも私のことを覚えていたらしい。
「久しぶり。元気してた?」
私は「うん、まあね」とだけ答えた。かごの中には、夫と二人分の総菜と、明日の朝のヨーグルトが入っていた。彼女のほうは、小さな子ども連れだった。たぶん孫だろう。夕方の混雑した店内で、私たちは少しだけ話をした。お互いの近況を、かいつまんで。
「今、どこに住んでるの?」
「実家の近く。親の介護があって、そっちに戻ってきたの」
彼女は「大変だね」と言って、子どもを抱え直した。私は「まあ、いろいろあるよ」と笑った。笑うしかなかった。
家に帰ると、夫はまだ仕事から戻っていなかった。リビングの電気をつけて、買ってきた総菜をテーブルに置く。今日はもう、何も作りたくない。冷蔵庫にあった麦茶をコップに注いで、一気に飲んだ。スマホを見ると、妹からLINEが来ていた。
「お母さん、今日もデイサービスで何も食べなかったって。職員さんから電話あったよ」
私は既読だけつけて、しばらく画面を見つめていた。返事を打つ気力が湧かない。妹はたぶん、私に何かしてほしいわけじゃない。ただ、共有したいだけだ。それくらいはわかっている。でも、わかっているからこそ、余計に重かった。
母が認知症だと診断されてから、もう四年になる。最初のうちは、まだ会話もできた。同じことを何度も聞かれても、笑って答えられた。でも、今は違う。私のことを「お姉さん」と呼ぶようになった。娘だとは認識していない。それでも、週に三回は実家に通っている。洗濯をして、冷蔵庫の中身を確認して、薬を飲んだかどうかをカレンダーに書き込む。やることは決まっているのに、毎回、何かしら予定外のことが起きる。
この前は、玄関の鍵が開けっ放しになっていた。先週は、お風呂の水を出しっぱなしにしていた。そのたびに、私は母を責めないように気をつける。でも、声のトーンが少し強くなってしまうことがある。母は何もわかっていない顔で、窓の外を見ている。
夫は、そういう私の話を聞いてくれる。でも、どこか他人事だ。それは仕方ない。彼にとっては義理の母で、血のつながりもない。私がどんなに疲れていても、彼の生活リズムは変わらない。朝は七時に起きて、会社に行って、夜は八時過ぎに帰ってくる。夕飯を食べて、風呂に入って、スマホをいじって寝る。それだけだ。
「たまには、お前も休んだら」
そう言ってくれることはある。でも、休むというのが具体的にどういうことなのか、彼はたぶん考えていない。私が休んだら、誰が実家に行くのか。妹はフルタイムで働いていて、子どももいる。私がやるしかない。そういう空気が、いつの間にか出来上がっていた。
今日、スーパーで会った同級生は、昔、私と一緒にバスケ部だった。あの頃は、毎日のように笑っていた気がする。部活の帰りに、自販機でジュースを買って、公園のベンチで一時間くらい喋った。将来の話も、好きな人の話も、全部あけすけに話せた。あのときの私は、今の私と違って、もっと自由だった。
彼女と別れてから、ふと思った。私はいつから、こんなに余裕がなくなったんだろう。母の介護が始まってからか、結婚してからか、それとも、もっと前からか。わからない。でも、確実に言えるのは、私はもう、あの頃の私ではないということだ。
夜、夫が帰ってきた。玄関の鍵が回る音がして、リビングに顔を出す。
「ただいま。今日は寒かったな」
「おかえり。ご飯、買ってきたよ」
「ああ、助かる」
彼は手を洗って、着替えてから、テーブルに座った。私も向かいに座る。テレビをつけると、ニュースが流れていた。どこかの政治家が謝罪会見をしている。夫はそれを見ながら、黙って箸を動かしている。
「ねえ、今日、高校の同級生に会ったんだ」
「へえ、誰?」
「バスケ部だった子。覚えてないかもだけど」
「ああ、なんとなく」
会話はそれで終わった。夫はニュースに集中している。私は、もう少し話したかったけど、特に何を話したいわけでもなかった。ただ、声に出したかっただけかもしれない。
片付けをして、風呂に入って、寝室に行く。夫はもう布団に入っていて、スマホをいじっている。私は化粧水を塗りながら、明日の予定を頭の中で組み立てる。朝、洗濯を回して、実家に行って、帰りに銀行でお金を下ろす。午後は、母の通院の付き添い。夕方、スーパーに寄って、夜は夫の好物の肉じゃがでも作ろうか。いや、そんな余裕はないかもしれない。
布団に入ると、夫が「おやすみ」と言った。私も「おやすみ」と返す。天井を見ながら、今日の同級生の顔を思い出していた。彼女は、私のことをどう思っただろう。疲れて見えたかな。老けたと思われたかな。そんなことを考えているうちに、眠っていた。
翌朝、妹からまたLINEが来ていた。
「昨日、お母さん、夜中に起きて、押し入れの中を全部出してたらしい。朝、ヘルパーさんが来て片付けたって」
私は、また既読だけつけた。返事を打つ代わりに、カーテンを開ける。外は曇っていた。洗濯物は、乾くかどうか微妙な空模様だった。