妹から届いた、母の異変を知らせるLINE
リビングのエアコンが、また室外機から変な音を立て始めた。ガタガタというより、低く唸るような音。買い替えどきなのは分かっているけど、今年の夏もだましだまし乗り切るしかない。通帳の残高を思い浮かべながら、私は台所で麦茶をコップに注いだ。時刻は午後二時を少し回ったところ。パートから帰って、ようやく一息ついた。
そのとき、スマホが短く震えた。画面を見ると、妹の名前が出ている。LINEの通知。指で開くまでに、少し間が空いた。
「お姉ちゃん、今週末、そっちに行ってもいい?」
たったそれだけの文面。スタンプも絵文字もない。私は麦茶を一口飲んでから、既読をつけた。返事はすぐには打たず、スマホをテーブルに伏せた。
妹は三つ下で、今は実家から車で二十分ほどのマンションに一人で住んでいる。離婚してからもう八年になる。子供はいない。看護師の仕事を続けていて、夜勤も多い。忙しいのは分かっている。でも、こういう連絡が来るたびに、私は少しだけ身構えてしまう。
「今週末」と言われても、土曜は午前中にスーパーの特売に行きたいし、午後は美容院を予約している。日曜は夫がゴルフでいないから、自分のペースで過ごせると思っていた。それなのに。
私は冷蔵庫を開けて、作り置きのひじきの煮物がまだ残っているのを確認した。それから、シンクに落ちていた茶葉を指で集めて流す。返事を先延ばしにしている自分がいる。
夜、夫が帰ってきてから、何となくその話を出した。
「今度の土日、妹が来るかもしれない」
夫はネクタイを緩めながら、「ふうん」とだけ言った。それ以上は何も聞かない。聞かないというより、興味がないのだと思う。うちの夫は、私の実家のことには昔から深入りしない。それが楽なときもあるし、寂しいときもある。
「別にいいけど、飯は適当でいいよな」
「うん、まあ」
会話はそれで終わった。
結局、金曜の夜になって妹に返事をした。
「いいよ。何時ごろ来る?」
すぐに既読がついて、「昼過ぎには着くようにする」と返ってきた。私は「分かった」とだけ送って、スマホを充電器に差した。
土曜日、美容院の予約を午前中に変更してもらった。電話をかけると、いつもの担当の人が「大丈夫ですよ」と明るく言ってくれた。それだけで少し気が楽になる。美容院は私にとって、数少ない自分だけの時間だった。髪を切ってもらっている間、何も考えなくていい。鏡の中の自分が少しずつ整っていくのを見るのは、悪くない。
午後一時半、インターホンが鳴った。モニターに映った妹は、小さな紙袋を提げていた。私は玄関を開けて、「暑かったでしょ」と言った。
「うん、でも風があるだけマシかな」
妹はそう言って、靴を脱いだ。かかとの低いサンダル。足の爪には、淡いピンクのネイルが塗られていた。
リビングに通すと、妹は「これ、駅前で買った」と紙袋を差し出した。中を見ると、有名な洋菓子店のフィナンシェが入っていた。
「あそこの、好きだったよね」
「覚えてたんだ」
「そりゃ覚えてるよ」
私は冷たい麦茶を出して、向かいの椅子に座った。妹は一口飲んでから、「やっぱりお姉ちゃんち、落ち着くわ」と言った。
「そう?」
「うん。うち、今ちょっと散らかってて」
「仕事忙しいんでしょ」
「まあね。夜勤明けは何もする気になれない」
妹は看護師として、市内の総合病院で働いている。昔から体は強い方ではなかったけど、仕事は続けている。離婚してから、ますます仕事にのめり込んでいるように見えた。
「で、今日はどうしたの。何か話したいことでもあるの」
私はなるべく軽い調子で聞いた。妹は少しだけ視線を落として、麦茶のコップを両手で包んだ。
「うーん、話したいっていうか……ちょっと、お母さんのことで」
「お母さん?」
「うん。この前、実家に寄ったら、やっぱりちょっと変で」
私は背筋を伸ばした。母は今年で七十八になる。父が亡くなってからは、実家で一人暮らしをしている。足腰はまだしっかりしているけど、物忘れが増えてきたとは思っていた。
「変って、どんなふうに」
「昼間なのにカーテン閉め切ってて、テレビもつけてないの。で、私が行ったら『あら、今日は何曜日だっけ』って」
「それ、前にもあったよね」
「うん。でも、今回はちょっと違って。台所に、買ったままの食材が置きっぱなしになってて。冷蔵庫に入れるの、忘れてたみたい」
私は黙って聞いていた。妹は続けた。
「それでね、流しに、お皿が一枚だけ。何を食べたのか分からないけど、ラップもかけずに置いてあって」
「……お母さんらしくないね」
「そう。お母さん、ああ見えて台所だけはきれいにしてた人だから」
母は昔、料理教室に通っていたこともある。父が生きていた頃は、毎日のようにおかずを三品以上作っていた。私が子供の頃、台所に立つ母の背中は、いつもきちんとエプロンを結んでいた。
「それで、病院には連れて行ったの?」
「まだ。本人は『大丈夫、大丈夫』って言うし。でも、お姉ちゃんも一度、様子見に行ってくれないかなと思って」
私は腕を組んだ。実家までは電車で四十分ほど。行けない距離ではない。でも、パートのシフトや家のことを考えると、気軽にとはいかない。
「分かった。来週あたり、行ってみる」
「ごめんね、休みの日に」
「別にいいよ。私も気になってたし」
妹は少しほっとした顔をした。それから、二人でフィナンシェを食べた。甘さが、少しだけ体に染みた。
夕方、妹が帰る間際、玄関で靴を履きながら言った。
「お姉ちゃん、無理しないでね」
「無理なんてしてないよ」
「そうじゃなくて。お母さんのこと、全部お姉ちゃんが背負わなくていいから」
私は何と答えていいか分からず、「うん」とだけ言った。妹は小さく手を振って、マンションの廊下を歩いていった。
夜、夫に実家のことを話した。
「物忘れが進んでるみたいでさ。来週、ちょっと見に行ってくる」
夫はテレビを見ながら、「そうか」と言った。リモコンを操作して、チャンネルを変える。
「お前が行くなら、俺も行こうか」
「え、いいよ。別に」
「いや、車出すよ。電車より楽だろ」
私は意外に思った。夫が実家に行くなんて、ここ数年なかった。母も夫のことを「あの人は無口だから」と言っていた。
「でも、日曜はゴルフじゃないの」
「今週は休み。たまにはいいだろ」
「……ありがとう」
夫は照れたように「おう」とだけ言って、またテレビに目を戻した。
日曜日、夫の車で実家に向かった。高速は使わず、下道でのんびり走る。車内ではラジオから懐メロが流れていた。夫はほとんど喋らない。私も窓の外を眺めていた。
実家に着くと、母は庭で水やりをしていた。ホースを握る手が、少し震えているように見えた。
「あら、二人で来たの」
母は驚いた顔をしたが、すぐに笑った。私は「来ちゃった」と言って、玄関に向かった。
家の中は、思ったより片付いていた。妹が言っていたような散らかりはない。台所も、流しに食器はなかった。ただ、カレンダーが先月のままになっていた。
「お母さん、カレンダー、めくってないの」
「あら、そうだったかしら」
母はそう言って、壁のカレンダーを一枚めくった。指先が、少しだけ迷っていた。
夫は居間で座布団に座り、母と他愛ない話をしていた。天気のこと、近所のスーパーのこと。私は台所でお茶を淹れながら、二人の声を聞いていた。
帰り際、母が「また来てね」と言った。その声が、少しだけ小さくなったように感じた。
車に乗り込むと、夫が言った。
「お袋さん、だいぶ痩せたな」
「そう? 私には分からなかった」
「いや、前より細いよ。ちゃんと食べてるのかな」
私はシートベルトを締めながら、実家の玄関先で手を振る母を見た。確かに、ワンピースの肩のあたりが、以前より余っているように見えた。
「今度、何か作って持って行こうかな」
「そうだな。俺もなんか買ってくわ」
夫のその言葉が、妙に嬉しかった。
家に帰ってから、妹にLINEを送った。
「今日、実家行ってきた。思ったより片付いてたよ。でも、ちょっと痩せたかも」
しばらくして返事が来た。
「そっか。ありがとう。私もまた行くわ」
私はスマホを置いて、冷蔵庫から麦茶を取り出した。エアコンは、相変わらず低い音を立てていた。でも、さっきよりは気にならなかった。
来週は、母の好きだった煮物でも作って持って行こう。そう思いながら、私は台所に立った。