夫が認知症になり、少しずつ違う人になっていく
冷たい空気で目が覚めた。布団から出た右肩がすっかり冷えていて、時計を見ると午前四時を少し回ったところだった。隣を見ると、夫の布団がもぬけの殻になっている。またか、と思いながら起き上がると、台所のほうでかすかに物音がした。
行ってみると、夫が冷蔵庫の前でしゃがみこんでいた。扉を開けたまま、中の明かりでぼんやりと手元を照らしている。何をしているのかと思ったら、野菜室から大根を取り出して、じっと見つめていた。
「どうしたの」
声をかけると、夫はゆっくりこちらを振り向いた。寝ぼけているのか、目が合っているのに焦点が合っていない。
「大根、買ってたっけ」
「一昨日、特売で買ったでしょ。あなたも一緒にいたじゃない」
「そうだっけ」
そう言って、夫は大根を冷蔵庫に戻した。それから立ち上がり、何もなかったように寝室へ戻っていった。後ろ姿を見送りながら、私は冷蔵庫の扉を閉めた。閉まる音が、やけに大きく響いた。
あれが始まったのは、去年の秋ごろだったと思う。最初は夜中に起き出して、リビングの電気をつけたり消したりしているだけだった。私が気づくと、夫は暗い中でソファに座っていて、ぼんやりと壁を見ていた。声をかけると「眠れないだけ」と答えるので、私も深くは追わなかった。年のせいで眠りが浅くなるのは、私にも心当たりがあったから。
でも、だんだんおかしなことを口にするようになった。昼間、普通に話しているときに、突然「今日は何曜日だっけ」と聞いてくる。カレンダーは目の前にあるのに。それから、テレビのリモコンを探しているのに、手に持っていることもあった。
私が本格的に心配になったのは、年が明けてすぐのことだ。夫が近所のスーパーから帰ってこなかった。買い物に行くと言って出てから、二時間以上たっても戻らない。携帯に電話しても出ない。心配になって自転車で探しに行くと、団地の入り口のベンチに座っていた。手には何も持っていない。
「買い物は?」
「ああ、何を買うんだったか忘れて」
笑いながら言うので、私も笑ってごまかした。でも、そのときの夫の笑い方が、なんだか薄っぺらく見えた。無理に笑っているというか、自分でも状況がつかめていないような顔だった。
それから何度か、同じことが続いた。病院に連れて行こうと言うと、夫は最初、嫌がった。「年のせいだ」「疲れてるだけだ」と言い張って、話をそらす。でも、ある日、仕事から帰ってきた夫が、玄関で靴を脱ぐのを忘れて上がろうとしたことがあって、さすがに本人もおかしいと思ったらしい。観念したように「病院、行こうか」と小さく言った。
検査の結果は、アルツハイマー型認知症の初期だと言われた。医者は穏やかな口調で「まだ早い段階ですから、進行を遅らせる方法はあります」と説明してくれた。夫は隣で黙って聞いていた。私はというと、頭のどこかで「やっぱり」と思う自分と、「まさか」と思う自分がいて、どちらの感情も中途半端なまま、ただ医者の話を聞いていた。
帰りの車の中で、夫がぽつりと言った。
「悪いな」
「何が」
「お前に、面倒かける」
私は「今さら何言ってるの」と軽く返した。でも、心の中では、これから先のことを考えて、胃のあたりが冷たくなっていくのを感じていた。
それからの生活は、思ったより静かに変わっていった。夫はまだ仕事を続けていた。会社には診断のことを伝えたらしく、残業を減らしてもらったり、出張を外してもらったりしているようだった。家では、以前より物忘れが増えたけれど、日常生活はなんとか送れていた。私もパートを続けながら、夫の様子を見守る日々だった。
でも、何かが少しずつずれていく感覚は、常にあった。たとえば、夫が夕飯のときに「これ、うまいな」と言って、同じおかずを二回おかわりしたことがある。それは別にいい。問題は、その三十分後、台所で食器を洗っている私のところに来て、「今日の夕飯、まだ?」と真顔で聞いたことだ。
「さっき食べたでしょ」
そう言うと、夫は一瞬、傷ついたような顔をした。それから「ああ、そうだった」と笑った。その笑い方が、また薄っぺらくて、私は食器を洗う手を止められなかった。
娘には、夫の診断が下りてからすぐに電話で伝えた。娘は結婚して千葉に住んでいて、小学生の子どもが二人いる。電話の向こうで、しばらく黙っていた。
「そっか……お父さん、まだ若いのにね」
夫は六十二歳。たしかに、認知症というには早いほうかもしれない。でも、若年性というほどでもない。微妙な年齢だった。
「こっちに帰ってくる?」
「ううん、まだ大丈夫。仕事も行ってるし、普通に暮らせてるから」
「でも、お母さん、大変でしょ」
「大変ってほどじゃないよ。まだ初期だし」
そう答えながら、私は娘に心配をかけまいとしている自分に気づいた。いや、違う。心配をかけたくないというより、娘に「大変な母親」だと思われたくなかったのかもしれない。
娘は「何かあったらすぐ言ってね」と言って電話を切った。その言葉はありがたかったけれど、同時に、遠くに住む娘にはどうせ何もできないという諦めもあった。
夫の症状は、月を追うごとに少しずつ進んでいった。薬のせいか、進行はゆっくりだったけれど、確実に何かが失われていっているのは感じた。夫が、夫でなくなっていくような感覚。いや、そうではない。夫は夫なのだ。でも、私が知っている夫とは、少しずつ違う人になっていく。
ある夜、夫が突然起き上がって、クローゼットを開け始めた。何をしているのかと見ていると、スーツを取り出して、ハンガーから外そうとしている。
「どうしたの、こんな時間に」
「会社に行かないと」
「まだ夜中だよ。それに、今日は土曜日でしょ」
夫は手を止めて、スーツを見つめたまま動かなくなった。それから、ゆっくりと私のほうを向いた。
「俺、仕事、してるのか」
その言葉に、私は答えられなかった。夫はまだ仕事をしている。でも、その仕事がいつまで続けられるのか、私にもわからない。会社の人は理解があるようだったけれど、それにも限界があるだろう。
「してるよ。大丈夫だから、寝よう」
私は夫の手からスーツを取って、クローゼットに戻した。夫は素直に布団に戻ったけれど、朝まで眠れていないようだった。私も眠れなかった。
それからしばらくして、夫は会社を辞めた。正確には、会社のほうから「そろそろ難しい」と言われたらしい。夫は「自分から辞めることにした」と言っていたけれど、本当のところはわからない。ただ、辞めてからの夫は、明らかに元気がなくなった。家にいる時間が長くなって、何をしていいのかわからない様子だった。
私はパートの時間を少し増やした。夫が家にいることで、生活費はかかるし、将来のことも考えなければならない。でも、私が働いている間、夫が一人で家にいるのも心配だった。近所の人が見守ってくれているとはいえ、何かあったらと思うと、仕事に集中できないこともあった。
そんなある日、夫が突然「実家に帰りたい」と言い出した。夫の実家は新潟で、義母が一人で暮らしている。義父は十年前に亡くなった。
「お袋の様子も見たいし」
「でも、新潟まで一人で行くのは無理でしょ」
「大丈夫だよ。電車に乗れば着くから」
私は反対した。でも、夫は意外に頑固で、何度も同じことを繰り返した。義母に電話すると、義母は「こっちは大丈夫だから、無理しなくていいよ」と言ってくれた。でも、夫の気持ちは変わらなかった。
結局、私が付き添って新潟に行くことになった。夫は久しぶりの長距離移動に疲れたのか、新幹線の中でずっと眠っていた。窓の外の景色が流れていくのを見ながら、私はこれからのことを考えていた。夫の実家に帰るということは、義母に夫の状態を直接見せるということだ。義母は電話では「大丈夫」と言っていたけれど、実際に息子の変わってしまった姿を見たら、どう思うだろう。
新潟の実家に着くと、義母は玄関で待っていた。小柄で、いつも背筋の伸びた人だった。夫の顔を見ると、義母は「よく来たね」と笑った。でも、その目は夫の様子を探るように動いていた。
夕食のとき、夫は義母の作った煮物を食べながら、「これ、おふくろの味だな」と言った。義母は嬉しそうに笑った。でも、その直後、夫が「あれ、この煮物、誰が作ったの?」と聞いたとき、義母の笑顔が一瞬で消えた。
「あんたが今、おふくろの味だって言ったんでしょ」
義母は明るく言ったけれど、その声は少し震えていた。私は何も言えず、ただ箸を動かしていた。
その夜、義母と二人で片付けをしているとき、義母がぽつりと言った。
「あの子、こんなになっちゃったの」
「まだ初期です。でも、少しずつ進んでて」
「そう……あんたも大変だね」
義母は私の手を握った。その手は思ったより冷たくて、骨ばっていた。私は「大丈夫です」と答えたけれど、義母の目を見ることはできなかった。
新潟から帰ってから、夫は少し落ち着いたように見えた。実家に行って、義母に会えたことで、何かが満たされたのかもしれない。でも、症状は確実に進んでいた。家の中で迷子になることはないけれど、テレビの内容が理解できなくなったり、時計の針が読めなくなったりした。
私はというと、夫の世話をしながら、自分の時間がどんどん削られていくのを感じていた。パートから帰って、夕飯を作って、夫の様子を見て、寝る。その繰り返し。友達と会うことも減った。LINEのグループトークも、既読をつけるだけで精一杯だった。
ある日、スーパーで偶然、昔の職場の同僚に会った。彼女は私の顔を見るなり「痩せた?」と言った。私は「そうかな」と笑ってごまかしたけれど、たしかに体重は減っていた。食欲がないわけではない。でも、食べることを忘れてしまうことがあるのだ。
「大丈夫? なんかあったら言ってよ」
彼女はそう言ってくれたけれど、私は「うん、ありがとう」とだけ答えた。何があったのかを説明する気力もなかったし、説明したところで、きっと「大変だね」と言われるだけだ。その言葉が欲しいわけではない。でも、何が欲しいのかも、自分ではわからなかった。
家に帰ると、夫がリビングのソファに座って、窓の外を見ていた。私が帰ってきたことに気づいていないのか、声をかけても反応が薄い。
「ただいま」
「……おかえり」
夫はそう言ったけれど、視線は窓の外に向いたままだった。私は買ってきた食材を冷蔵庫に入れながら、夫の背中を見ていた。あの背中が、以前より小さく見える。いや、実際に小さくなったのかもしれない。筋肉が落ちて、姿勢も悪くなった。
「今日、スーパーで元同僚に会ったよ」
「そうか」
「痩せたって言われた」
「そうか」
夫は相槌を打つだけで、会話が続かない。以前の夫なら、「ちゃんと食べてるのか」とか「無理するなよ」とか、何かしら返してくれたはずだ。でも、今の夫は、私の言葉を聞いているのかどうかもわからない。
私は夫の隣に座って、窓の外を見た。団地の駐車場に、夕日が当たっている。オレンジ色の光が、車のボンネットに反射していた。
「ねえ、私、これからどうしたらいいのかな」
夫は何も答えなかった。ただ、ゆっくりと私のほうを向いて、少しだけ笑った。その笑顔は、以前の夫のものだった。何もわかっていないのに、私を安心させようとするときの笑顔。
私は夫の手を握った。夫の手は温かかった。その温かさが、逆に悲しかった。
まだ、この手は夫の手だ。でも、この手が、いつか私のことをわからなくなる日が来る。その日まで、私はこの手を握り続けられるだろうか。
窓の外では、夕日が沈みかけて、駐車場の車が一台、ヘッドライトをつけた。私は夫の手を握ったまま、その光が消えるのを待っていた。