妹から届いた仏壇を引き取ってほしいというお願い

冷蔵庫の野菜室を開けたら、透明な袋に入った小松菜がしなびていた。買ったのは四日前。袋の口を留めていた輪ゴムが伸びきっていて、指に絡まる。ため息をついてから、とりあえず味噌汁に入れようとシンクに置いた。

台所の窓から隣のマンションの壁が見える。ここに越してきて十二年になるけど、いまだにこの景色には慣れない。実家は埼玉の川口で、二階の窓からは近所の柿の木が見えた。秋になると母が「そろそろもらえるかしら」と楽しみにしていたのを思い出す。

スマホが震えた。画面を見ると、妹の由紀からLINEが来ている。

「お姉ちゃん、今週末そっち行っていい?」

私はすぐに返事を打った。「いいよ。何時ごろ?」

既読がついて、しばらくして返信が来た。「午後二時くらい。話したいことがあるの」

話したいこと。この言い方をするときの由紀は、たいてい面倒な話を持ってくる。実家の相続のときもそうだった。母が亡くなってからもう三年になるけど、あのときのごたごたはまだ体のどこかに残っている感じがする。

私は「わかった」とだけ返して、スマホをテーブルに置いた。

その日は木曜日だった。パートは休み。午前中に掃除を済ませて、昼は冷やし中華にしようと思っていた。夫の健一は今夜も遅いと言っていた。最近はずっとそうだ。帰ってくるのは十一時過ぎ。夕飯は一人で食べることがほとんどになった。

結婚して二十六年。息子の直樹は二十四歳で、今は千葉の会社の寮に住んでいる。娘の美咲は二十一歳で、都内の大学に通いながらアルバイトをしている。二人とも家を出て、この三LDKのマンションには私と夫の二人だけになった。

広すぎるとは思わない。ただ、静かだとは思う。

金曜日の夜、健一に「明日由紀が来る」と伝えると、彼は新聞から目を上げずに「ふうん」と言った。それから「何か買っておくか」と続けた。

「お茶とお菓子くらいでいいと思う」

「そうか」

会話はそれで終わった。健一はまた新聞に目を落とした。私は洗い物をしながら、由紀が何を話したいのかを考えていた。たぶん、またお金のことだろう。由紀は離婚してからずっと金銭的に苦しい。パートを掛け持ちして、高校生の娘を一人で育てている。大変なのはわかっている。でも、私にも余裕があるわけではない。

土曜日、由紀は二時を少し過ぎてやってきた。インターホンが鳴って、ドアを開けると、由紀は小さな紙袋を差し出した。

「これ、駅のところで買った。大福」

「ありがとう。入って」

由紀は靴を脱いで上がると、リビングのソファに座った。私がお茶を入れる間、由紀はスマホを見ていた。相変わらず痩せている。頬がこけて、目だけが大きく見える。

「で、話って何」

私が向かいに座って切り出すと、由紀はスマホを置いて、少しだけ背筋を伸ばした。

「お姉ちゃん、お母さんの仏壇のことなんだけど」

「仏壇?」

「うん。私のアパート、狭いから置く場所なくて。今は押入れの上に箱に入れたままなの。それってやっぱり良くないかなって思って」

母の仏壇は、相続のときに由紀が引き取ることになっていた。由紀が「私が供養する」と言い出したからだ。私はそれでいいと思った。うちには仏間もないし、健一の実家の宗派とも違うから、置くのは難しいと思っていた。

「良くないっていうか、由紀が引き取るって言ったんでしょ」

「そうなんだけど。でも、やっぱり私には荷が重いっていうか。毎日お水替えて、お線香あげてって、ちゃんとできてないの。それがずっと気になってて」

由紀はそう言って、お茶を一口飲んだ。

「それで、お姉ちゃんのところで置いてもらえないかなって」

私はすぐには答えなかった。リビングの窓の外では、風でマンションの植え込みが揺れている。由紀の言いたいことはわかる。でも、今さらうちで引き取るというのは、いろいろと面倒だ。健一に相談しなければいけないし、置く場所も考えないといけない。

「急に言われても困るよ。健一にも聞かないと」

「うん、わかってる。でも、お姉ちゃんのところなら広いし、ちゃんと供養してもらえるかなって」

「由紀だって、やろうと思えばできるでしょ。アパートが狭いのは前からわかってたことじゃない」

由紀は黙った。指先で紙ナプキンの端を折っている。その仕草が母に似ていて、胸のあたりが少し痛んだ。

「お母さんが亡くなる前、私に『由紀は無理しなくていいからね』って言ったの。覚えてる?」

由紀が顔を上げた。

「あのとき、お姉ちゃんは台所でお茶碗洗ってた。お母さん、小さな声でそう言ったの。私、あれがすごく引っかかってて」

私は何も言えなかった。母がそんなことを言っていたなんて知らなかった。

「お母さんは、私が仏壇を引き取ることを心配してたのかもしれない。お姉ちゃんに任せたかったのかもしれない」

「でも、相続の話し合いのとき、由紀が自分から引き取るって言ったんでしょ。あの場で」

「そう。でも、あのときは私、いっぱいいっぱいで。お母さんが亡くなって、離婚の手続きも重なって、何も考えられなかった。ただ、私が何かしなきゃって思って」

由紀の声は震えていなかった。淡々としていた。それがかえって、長い間このことを考え続けてきたのだと感じさせた。

「お姉ちゃん、お願い。仏壇、引き取ってくれないかな」

私はお茶を飲んだ。冷めていた。

「健一に聞いてみる。でも、約束はできないよ」

「うん。それでいい。ありがとう」

由紀はそれから三十分ほどいて、近況を話して帰っていった。娘の美優が来年高校受験だとか、パート先のスーパーで新しいレジが入って覚えるのが大変だとか。私は相づちを打ちながら、母の言葉のことを考えていた。

由紀が帰ったあと、リビングに一人で座っていると、急に部屋が広く感じた。テーブルの上には由紀が置いていった大福が二つ、白い紙の上に並んでいる。私はそれを冷蔵庫に入れて、夕飯の支度を始めた。

健一が帰ってきたのは十一時を回っていた。ネクタイを緩めながら「由紀は何の話だったんだ」と聞いてきた。

「母の仏壇をうちで置いてほしいって」

健一は一瞬動きを止めて、それから「ふうん」と言った。

「どうするの」

「どうしようかと思ってる。健一はどう思う」

健一はソファに座って、テレビをつけた。野球の結果が流れている。

「別に置くのは構わないけど、場所はどこにするんだ」

「和室しかないよね。押入れの上とか」

「あそこ、俺のゴルフバッグが入ってるけど、まあ整理すればいいか」

健一はそう言って、ネクタイを外した。私は「ありがとう」と言った。でも、心の中ではまだ迷っていた。由紀の言い分はわかる。でも、母が本当に私に任せたかったのかどうかは、今となっては確かめようがない。

翌日、私は母の仏壇を引き取ることを由紀にLINEで伝えた。由紀からは「ありがとう。本当に助かる」と返信が来た。それから「今度の日曜に持って行くね」と続いた。

日曜日、由紀は段ボール箱を抱えてやってきた。箱の中には小さな仏壇と、母の遺影、位牌、お線香、おりんが入っていた。由紀は「これ、お母さんが使ってた数珠も入ってるから」と言って、箱を和室に置いた。

「お姉ちゃん、本当にありがとう。私、これで少し楽になる」

由紀はそう言って、少しだけ笑った。私は「ちゃんと供養するからね」と答えた。でも、心のどこかで、母が由紀に言ったという言葉が引っかかっていた。

由紀が帰ったあと、和室で段ボールを開けた。仏壇は思っていたより小さくて、母の遺影はにこやかに笑っている。私はお線香をあげて、手を合わせた。目を閉じると、母の声が聞こえるような気がした。でも、それはただの記憶でしかない。

夕方、健一が「仏壇、ちゃんと置けたか」と聞いてきた。

「うん。和室の隅に置いた。明日、お花買ってくる」

「そうか。よかったな」

健一はそれだけ言って、またテレビを見始めた。私は台所で夕飯の支度をしながら、母のことを考えていた。母は私に何を望んでいたのだろう。由紀に「無理しなくていい」と言ったのは、由紀を気遣ってのことだと思う。でも、それが私に任せたいという意味だったのかはわからない。

たぶん、母は何も決めていなかったのだと思う。ただ、由紀が苦しまないようにと思っただけだ。私はそう考えることにした。そうしないと、母の言葉が重すぎて、由紀との関係までぎくしゃくしてしまいそうだった。

冷蔵庫を開けると、昨日の大福がまだ残っている。私は一つ取り出して、半分に切った。あんこの甘さが、やけに体に染みた。