週3回の実家通いと、母からの電話が止まらない日々

夕方のスーパーで、半額シールの貼られた刺身パックを手に取った瞬間、スマホが震えた。画面に「母」の文字。またか、と思いながら出ると、いつもと同じ声が耳に刺さった。

「あんた、今どこ?今日、来るって言ってたよね?」

来るなんて言っていない。昨日も一昨日も、電話で「今週は無理」と伝えたはずだ。でも母の中では、私が毎日来ることになっているらしい。

「今日は行けない。仕事が長引いて」

レジに並びながら、声をひそめて言った。後ろに並ぶ若い男の子が、スマホをいじりながらため息をついている。

「仕事仕事って、お母さんより仕事が大事なの?」

母の声が大きくなる。レジのおばさんが一瞬こちらを見た気がした。私は「また後でかける」と言って電話を切った。

五十二歳。パートの事務仕事をしながら、週三日は実家に通っている。電車で四十分。母は七十八歳。父が三年前に亡くなってから、一人暮らしだ。

会計を済ませて外に出ると、十月の風が冷たかった。マンションまでの道を歩きながら、スマホを開く。妹からのLINEが一件。

「お母さんから電話あったよ。お姉ちゃんが全然来てくれないって泣いてた」

妹は千葉に住んでいて、年に二回帰ってくるかどうかだ。なのに母は、妹には優しい。私には文句ばかり言う。

「あんたは近いんだから、ちょっと顔見せるくらいできるでしょ」

近い、確かに電車で四十分は近い方かもしれない。でも、週三日通って、買い物して、掃除して、病院の予約もして、薬の整理もして。それでも足りないと言われる。

家に着いて、買ってきた刺身を冷蔵庫に入れた。夫はまだ帰っていない。息子は一人暮らしで、娘は去年結婚して横浜にいる。二人とも、たまにLINEをくれるだけで、実家にはほとんど寄りつかない。

私が子どもたちの頃、母はいつも忙しかった。父の稼ぎだけでは足りなくて、母もスーパーのレジで働いていた。私は小学生の頃から、妹の面倒を見て、夕飯の支度を手伝った。母は「お姉ちゃんだから」とよく言った。お姉ちゃんだから我慢しなさい。お姉ちゃんだから手伝いなさい。お姉ちゃんだから、しっかりしなさい。

その言葉が、今も私の中に染みついている。

翌日、仕事が終わってから実家に向かった。駅から歩いて十分。古い住宅街の一角に、実家はある。築四十年の小さな一軒家。父が残した家だ。

玄関を開けると、母が居間のこたつに座ってテレビを見ていた。私が来たのに、ちらっと見ただけで何も言わない。

「来たよ」

声をかけると、母は「遅かったね」とだけ言った。

台所に行くと、シンクに洗い物がたまっていた。昨日の夕飯の皿だろう。スポンジに洗剤をつけて、黙って洗い始める。母はテレビの音量を上げた。ワイドショーが、どこかの芸能人の離婚の話を流している。

「お母さん、昨日の電話、何だったの?」

洗い物をしながら聞くと、母はテレビから目を離さずに言った。

「別に。ただ、声が聞きたかっただけ」

その言い方が、妙に寂しそうで、でも責められているようでもあって、私は何も言えなくなった。

洗い物を終えて、冷蔵庫を開ける。私が先週買っておいたヨーグルトが、一つも減っていない。賞味期限が昨日で切れている。

「これ、食べなかったの?」

「ああ、忘れてた」

忘れてた、じゃない。賞味期限を確認して、捨てる。母は「もったいない」と小声で言った。

「じゃあ食べればよかったじゃない」

「だって、あんたが来たら一緒に食べようと思って」

そう言われると、責められない。母は母なりに、私を待っていたのだろう。でも、待たれることが重い。

居間の隅に、父の遺影がある。にこにこ笑っている写真だ。父は優しい人だった。母が私にきつく当たると、いつも間に入ってくれた。でも、父がいなくなってから、母はますます私に依存するようになった。

「ねえ、お母さん。デイサービス、行ってみない?」

以前にも何度か提案したことがある。母は即座に首を振った。

「あんなところ、行きたくない。知らない人ばかりで疲れるだけ」

「でも、お母さんも家に一人でいると、気が滅入るでしょ」

「あんたが来てくれれば、それでいいの」

会話がいつも同じところに戻る。私はため息を飲み込んで、買ってきた総菜を冷蔵庫にしまった。

「今日はこれで帰るね。明日も仕事だから」

「もう帰るの?せっかく来たのに」

「一時間はいるよ。十分でしょ」

母は黙ってテレビを見つめた。リモコンを握る手が、少し震えている。年を取ったな、と思う。でも、その手に縛られるのは嫌だ。

玄関で靴を履いていると、母が後ろから来て、小さな紙袋を差し出した。

「これ、あんたの好きだったやつ」

中を見ると、駅前の和菓子屋の最中だった。私が子どもの頃、たまに買ってもらうと嬉しくて、妹と半分こして食べたやつだ。

「わざわざ買いに行ったの?」

「散歩がてらね」

母はぶっきらぼうに言って、すぐに居間へ戻っていった。

紙袋を握りしめて、夜道を駅まで歩く。最中が、やけに重く感じた。

電車の中で、妹にLINEを打つ。

「今日も実家行ってきた。お母さん、元気ではあるけど、やっぱり一人は不安みたい」

既読がつくのに、返事はなかなか来ない。十分ほどして、短い返信が来た。

「お姉ちゃん、いつもありがとう。本当に助かってる」

その言葉に、救われる自分と、それだけかよと思う自分がいる。

家に帰ると、夫がソファで寝ていた。テーブルの上に、コンビニの弁当の空容器が置いてある。私がいないと、いつもこうだ。

片付けて、シャワーを浴びて、布団に入る。スマホを見ると、母からLINEが来ていた。スタンプが一つ。花の絵文字がついた「おやすみ」のスタンプだ。

返事を打とうとして、指が止まる。何を送ればいいのかわからない。結局、同じスタンプを返して、画面を閉じた。

暗い天井を見ながら、考える。私はいつまで、これを続けるんだろう。母が元気なうちは、きっと続ける。でも、母が元気でいる限り、私の人生は母のための時間に少しずつ削られていく。

五十歳を過ぎて、自分の時間がやっと持てると思った。夫も定年が近い。二人で旅行に行きたい。趣味も始めたい。でも、母の電話が鳴るたびに、その夢は遠ざかる。

翌朝、起きてすぐに母から電話が来た。

「今日、病院の日なんだけど、付き添ってくれる?」

「今日は仕事。先週も言ったでしょ。予約、変えてもらったら?」

「でも、先生に聞きたいことがあって」

「電話で聞けばいいじゃない」

「あんたが一緒じゃないと、うまく説明できない」

母は、私がいないと何もできないわけではない。本当は、自分でできる。でも、私を呼ぶ。呼ばれると、行かなければと思う。行くと、また次の用事を作られる。

「わかった。昼休みに抜けるから、一時までには行く」

「ありがとう。助かるわ」

母の声が、急に明るくなる。その明るさが、私には少し怖い。

昼休みに職場を抜けて、病院へ向かう。待合室で、母は小さくなって座っていた。私を見つけると、ほっとして笑う。その笑顔を見ると、憎めない。憎めないから、余計に苦しい。

診察が終わって、会計を待つ間、母が言った。

「あんたも、無理しないでね」

「お母さんが言う?」

思わず笑ってしまう。母も、つられて笑った。

「そうね。私が言えた義理じゃないか」

そう言って、母は窓の外を見た。秋の空が、高く澄んでいる。

「お父さんがいたら、こんなに迷惑かけなかったのにね」

「迷惑なんて、思ってないよ」

嘘ではない。でも、全部本当でもない。

会計を済ませて、病院の外に出る。母は「じゃあ、気をつけて」と言って、バス停の方へ歩いていった。後ろ姿が、小さくて、少し傾いている。

私は反対方向の駅へ向かう。振り返ると、母も振り返っていた。手を小さく振っている。私も手を振り返す。

職場に戻る道すがら、スマホが震えた。母からLINEが来ている。

「今日はありがとう。お昼、ちゃんと食べてね」

既読をつけて、返事は「うん」とだけ送った。

それでいいのか、わからない。でも、今はそれしかできない。

午後の仕事をしながら、ふと、母が買ってくれた最中のことを思い出した。まだ食べていない。家に帰ったら、お茶を入れて食べよう。一人で、ゆっくり。

そう思うと、少しだけ、心が軽くなった。