合鍵で冷蔵庫を覗きに来る義母
冷蔵庫の前で、義母が買い置きのヨーグルトの数を指さして数えている。私はその横で、レジ袋から特売の卵を取り出しながら、今日で四日連続だと思った。
「これ、昨日も来たわよね」
義母はヨーグルトから手を離すと、今度は野菜室を開けた。大根の葉が少ししなびている。私は何も言わずに卵を冷蔵庫のドアポケットへ移した。義母はため息をつくでもなく、ただ冷気を顔に当ててから、ゆっくりドアを閉めた。
「お義母さん、今日は寒かったでしょう」
「別に。バスで十五分くらいだから」
「今度から電話してください。買い物くらい、こっちでまとめて」
「あんたも仕事あるでしょ。悪いからいいのよ」
悪いと思っているようには聞こえなかった。でも、わざわざ来る理由が、本当にヨーグルトと大根の確認だけなのかはわからない。ただ、来る。週に三回か四回。買い物ついでに寄る、と言う。うちは駅からもスーパーからも遠い。ついでになるはずがない。
義母は台所の隅に置いた自分のトートバッグを手に取ると、中から小さな包みを出した。駅前の和菓子屋の最中だ。夫の好物で、私も嫌いではない。でも、いつもこれだ。
「健一にあげて。あの子、これ好きだったわよね」
「はい。ありがとうございます」
「あんたは、甘いものあんまり食べないわよね」
「普通に食べますけど」
「そうだったかしら」
義母はまた冷蔵庫のほうを見た。私は卵の空パックを潰して、燃えるゴミの袋に入れた。袋はもういっぱいだった。明日がゴミの日でよかった。
「ねえ、ちょっと聞いてもいい」
義母が急に声を低くした。私は手を止めて振り返った。義母はトートバッグの持ち手を両手で握り直している。
「健一、最近どうなの。仕事、大丈夫なの」
「大丈夫だと思いますけど。帰りは相変わらず遅いです」
「そう。ならいいのよ。あの子、昔から何も言わないから」
私も何も言わなかった。夫は確かに何も言わない。でも、義母の前でだけ何も言わないのか、私にも何も言わないのか、その区別が最近つかなくなっていた。
「じゃあ、そろそろ行くわ。暗くなる前に」
「送っていきましょうか。車、出しますよ」
「いいわよ。バス、すぐ来るし。あんた、夕飯の支度あるでしょ」
義母は玄関で靴を履くとき、腰を曲げるのが少し辛そうだった。私は見ないふりをして、傘を一本差し出した。午後から降るかもしれないと言われていた。
「要らないわよ。荷物になるし」
「折りたたみなんで軽いです」
「じゃあ借りるわ」
義母は傘を受け取ると、私の顔を正面から見た。何か言いたそうだったが、結局「じゃあね」とだけ言って出て行った。私は玄関の鍵を閉めてから、リビングに戻って最中の包みを開けた。一個、食べた。甘さがやけに喉に残った。
その夜、夫が帰ってきたのは十一時を回っていた。私はソファでスマホを見ていた。画面には、ママ友グループのLINEが流れている。誰かの娘が塾をやめるらしい。誰かの義母がまた入院したらしい。私はどちらにも返事をしていない。
「ただいま」
「おかえり。お風呂沸いてるよ」
「先に飯」
「温めるね」
夫はネクタイを外しながら、テーブルの上の最中に気づいた。
「これ、どうしたの」
「今日、お義母さんが来たから。健一にって」
「ふうん」
「あと、仕事大丈夫かって聞かれた」
「何で」
「さあ。心配してたよ」
「別に、普通だけど」
夫はそれ以上何も言わず、スマホを横に置いて箸を取った。私はレンジで肉じゃがを温めながら、義母が冷蔵庫を開けていた姿を思い出していた。あの人は、うちの冷蔵庫の中身を確認することで、まだこの家に自分が繋がっていると確かめているのかもしれない。そう思うと、少しだけ可哀想になった。でも、それ以上に、自分の家の冷蔵庫を毎回覗かれることが、やっぱり落ち着かなかった。
翌週、また義母が来た。今度は午前中だった。私はちょうどパートから帰ってきたところで、玄関の前に義母が立っているのが見えた。手にはスーパーの袋。中には食パンと牛乳が見えた。
「あら、今帰り?」
「はい。今日は早上がりで」
「ちょうどよかった。これ、安かったから買ってきたの。牛乳、切れてたでしょ」
「あ、はい。昨日切らしてて」
「やっぱり。冷蔵庫、開けたらわかるわよ」
私は袋を受け取りながら、義母がまた冷蔵庫を開けたことを知った。合鍵は渡してある。夫が渡した。私に相談はなかった。でも、断る理由もなかった。義母は一人暮らしで、何かあったときに必要だと言われれば、そうですかと言うしかなかった。
「今日はね、ちょっと話があって来たの」
義母は靴を脱ぎながら言った。私は袋を台所に置いて、振り返った。
「あのね、お父さんの七回忌のことなんだけど」
「はい」
「今年、ちゃんとやろうと思うの。健一に言っておいてくれる」
「お義母さんから直接言ったほうが」
「あの子、私の話、聞かないでしょ。あんたから言ってくれたほうが動くから」
私は黙ってうなずいた。義母はリビングに入ると、ソファに座らずに窓の外を見た。小さなベランダに、私が枯らしかけた鉢植えが二つ並んでいる。
「あれ、水やってるの」
「たまにですけど」
「そう。まあ、無理しないでいいわよ。あんたも忙しいでしょ」
義母はそう言いながら、ベランダに置いてあるジョウロを手に取った。そして、そのまま窓を開けて、鉢植えに水をやり始めた。私は止めるタイミングを失って、ただ見ていた。義母の背中は小さくて、でも、その動きには迷いがなかった。
「お義母さん、私がやりますから」
「いいのよ。これくらい。あんた、座ってなさい」
私は座らなかった。台所に行って、義母が買ってきた食パンを冷蔵庫に入れた。牛乳も。冷蔵庫の中は、昨日私が整理したばかりで、特に足りないものはなかった。義母はそれを見て、何を思うのだろう。何も思わないのかもしれない。ただ、来ることに意味があるのだ。
七回忌の話は、その日の夜、夫にした。夫は風呂上がりに缶ビールを飲みながら、スマホで競馬のニュースを見ていた。
「お義母さんが、今年はちゃんとやるって」
「何を」
「お父さんの七回忌」
「ああ。別にいいけど。いつ」
「まだ決めてない。お寺に聞くって」
「じゃあ、任せるよ。金は出すから」
「そういうことじゃなくて、お義母さん、あんたに直接言いたいんじゃないの」
「何で。別に誰が言っても同じだろ」
私はそれ以上言わなかった。夫は本当に何もわかっていないのか、わかっていて面倒だから避けているのか。どちらにしても、私が間に入るしかない。それが、この家での私の役割になっていた。
数日後、義母からLINEが来た。七回忌の日取りが決まったという。私は夫に転送した。夫からは「了解」のスタンプが一つ返ってきた。私はそのスタンプをしばらく見てから、義母に「健一にも伝えました」と返した。義母からは「ありがとう」とだけ来た。その「ありがとう」が、妙に重かった。
七回忌は、思ったよりあっさり終わった。お寺に行って、お経を上げてもらって、親族だけで食事をした。義母はずっと静かだった。夫は途中で仕事の電話に出て、席を外した。私の隣には、夫の妹が座っていた。義妹は都内に住んでいて、こういうときしか会わない。
「お義姉さん、いつも母のこと、ありがとうございます」
義妹が小声で言った。私は「別に、何もしてないですよ」と答えた。義妹は少し笑って、それから真顔になった。
「母、最近ちょっと変じゃないですか」
「変?」
「なんか、人の家の冷蔵庫とか見るの、前からですけど、あれ、ちょっと病的ですよ」
「そうかな。心配なんだと思うよ」
「お義姉さん、優しいんですね。私だったら無理です」
義妹はそう言って、お茶を一口飲んだ。私は何も言えなかった。優しいわけではない。ただ、断る理由を考えるのが面倒なだけだ。でも、それを口にすると、自分がとても冷たい人間に思えた。
帰りの車の中で、夫は運転しながら言った。
「母さん、なんか元気なかったな」
「そうだね」
「お前、なんか知ってる?」
「知らないよ。でも、一人で準備して疲れたんじゃない」
「そうかもな」
夫はそれきりだった。私は窓の外を見た。高速の脇に、大きなマンションがいくつも建っている。あの中の一つに住んでいたら、義母は週に何回も来られないだろうか。いや、どこに住んでも来るだろう。あの人は、来ることで自分を保っている。
家に着くと、義母からLINEが来ていた。「今日はありがとう。健一にもよろしく」と。私は「お疲れさまでした」とだけ返した。既読がついて、それで終わった。
その夜、私は久しぶりに自分の母に電話をかけた。母は地方に住んでいて、普段はほとんど連絡を取らない。電話に出た母は、最初に「どうしたの、何かあった?」と聞いた。
「別に。なんとなく」
「ふうん。元気ならいいけど」
「お母さん、私が子供の頃、おばあちゃんと仲良かった?」
「普通よ。でも、一緒に住んでたから、色々あったわよ」
「色々って」
「今さら言っても仕方ないこと。あんたも、そろそろわかる年でしょ」
母は笑っていた。私は、そうだね、とだけ言って電話を切った。リビングに戻ると、夫がソファで寝ていた。テレビがついている。私はテレビを消して、夫に毛布をかけた。夫は少し身じろぎしたが、起きなかった。
台所に行って、冷蔵庫を開けた。義母が買ってきた牛乳が、まだ半分残っている。私はそれをコップに注いで、一口飲んだ。冷たかった。冷蔵庫のドアを閉めると、キッチンが急に静かになった。私は、明日も義母が来るかもしれないと思った。来なかったら来なかったで、少し気になるのだろう。それが、今の私と義母の関係だった。