義母から手渡された鍵束と、介護に追われた私の3年間
夫の実家の仏壇の前で、義母が急に「はい」と私の手に何かを握らせた。冷たくて重い、小さな鍵束だった。何も言わずに、ただ握らせた。その瞬間、胃のあたりがぎゅっと縮むのがわかった。もう逃げられないんだ、と思った。
あれは三年前の秋で、私は四十八歳だった。パート先のスーパーの事務所で、レジのシフト表を見ていたとき、夫から着信があった。普段はLINEしかしない人なのに、電話をかけてくるのは何かあったときだけ。出ると、「母さんが倒れた」とだけ言った。声が少し震えていた。
義母は脳梗塞だった。幸い命に別状はなかったが、右半身に軽い麻痺が残り、一人暮らしは難しい状態になった。夫は長男で、妹が一人いる。義妹は千葉に住んでいて、子供がまだ小学生だった。だから、というわけでもないのだろうが、自然と話は「誰が面倒を見るか」になった。
病院の相談室で、夫と義妹と私と、それからケアマネージャーになる予定の人がいて、義母は車椅子に座っていた。義妹は「私、仕事も辞められないし」と言い、夫は腕を組んだまま黙っていた。私は、自分のパートのことを考えていた。あのスーパーは時給千百円で、週四日入っていた。辞めたくなかった。辞める理由もないと思っていた。
でも、誰も私に「どうする」とは聞かなかった。聞かれないまま、話は「嫁がいるから大丈夫」という前提で進んでいった。義母が小さな声で「迷惑かけてごめんね」と言った。私は「いえ」とだけ答えた。あのとき、なぜ「私にはできません」と言えなかったのか、今でも時々考える。
結局、義母は退院後、私たちの家に来ることになった。正確には、夫の実家ではなく、私たち夫婦が二十五年前に建てた家に。ローンはまだ八年残っていた。二階建ての四LDK。当時は子供が二人いて、夫の両親が遊びに来ても泊まれるようにと、少し無理をして広い家にした。その空いた一室が、義母の部屋になった。
最初の半年は、まだよかった。義母も「悪いねえ」と言いながら、自分でできることはしようとしていた。でも、麻痺した右手では箸も思うように使えず、食事のたびにこぼす。お風呂は一人では入れない。夜中にトイレに起きるたびに、私は目が覚めた。夫は「手伝えることがあったら言って」と言うが、平日は帰りが遅く、土日はゴルフや会社の付き合いでいないことが多かった。
私の一日は、朝五時半に起きて弁当を作り、義母の朝食を用意し、七時半に家を出てスーパーで四時間働き、昼に帰って義母の昼食を作り、洗濯をして、掃除をして、夕方に義母をデイサービスに送り出すか、来てくれたヘルパーさんと引き継ぎをして、それから夕食を作る。夫が帰るのはだいたい九時過ぎ。義母は八時には寝る。私は十時頃、ようやく座る。テレビも見ずに、スマホで何かを見ているうちに寝てしまう。
そんな生活が一年続いた頃、義母の認知症が始まった。最初は「財布がない」と言い出す程度だった。それが「お金を盗まれた」に変わった。盗んだのは私、ということになっていた。夫に「お母さん、また言ってるの」と話すと、「年寄りだから仕方ないだろ」とだけ言われた。義妹にLINEで相談しても、「お義姉さん、大変だね」とスタンプが一つ返ってくるだけだった。
ある日、近所のスーパーで万引きをしたと連絡が来た。私が謝りに行くと、義母は「だって、お金がないんだもの」と泣いていた。財布は家にあった。でも、そんなことはもうどうでもよかった。店長に頭を下げて、商品の代金を払って、義母の手を引いて帰る道すがら、私は「もう無理だ」と心の中でつぶやいていた。
それでも、無理を続けた。介護認定の更新の書類を揃え、デイサービスの回数を増やし、ショートステイの空きを探した。ケアマネージャーさんは「よくやってますよ」と言ってくれたが、その言葉がむなしかった。私はただ、毎日をやり過ごしているだけだった。
娘は東京で働いていて、たまに電話をかけてくると「お母さん、大丈夫?」と聞く。でも、その声には「私には関係ない」という響きがあった。息子は大阪で就職して、盆と正月に帰ってくるだけ。帰ってきても、義母の様子を見て「大変だね」と言って、友達と遊びに行ってしまう。
夫は、私がどんなに疲れていても、夕食のときに「今日は何があった」と聞いてくる。でも、それはただの習慣で、私の答えを本当に聞いているわけではない。私が「お義母さんが今日、デイサービスで……」と話し始めると、途中で「ふうん」と言って、テレビのリモコンを取る。
そんな夫が、ある晩、珍しく真剣な顔で「なあ、母さんのことなんだけど」と言った。私は、てっきり施設の話かと思った。でも、夫が言ったのは「そろそろ、お前も仕事を辞めたらどうだ」ということだった。「介護に専念してほしい」と。
私は、そのとき初めて、夫に怒りを感じた。声を荒げるのではなく、体の奥から冷たいものが湧いてくるような感覚だった。「私が仕事を辞めたら、家のローンはどうするの」と聞くと、夫は「俺の給料でなんとかする」と言った。でも、私のパート代は月に十万円ほどで、それがなければ子供たちの仕送りや、義母の医療費、日々の食費に回すお金が足りなくなる。夫は、家計のことを何もわかっていない。
「辞めないよ」と私は言った。それだけだった。夫は「なんでだよ」と不満そうだったが、それ以上は何も言わなかった。
それから一ヶ月後、義母が家の中で転んだ。骨折はしていなかったが、それをきっかけに、私はケアマネージャーさんに「もう家では見られません」と伝えた。夫には事後報告だった。夫は「勝手なことをするな」と怒ったが、私は「じゃあ、あなたが看るの?」とだけ言った。夫は黙った。
義母は、今、グループホームにいる。月に十三万円。夫の妹と折半している。義母は、最初は「家に帰りたい」と泣いていたが、最近は落ち着いて、職員さんと折り紙をしたりしている。面会に行くと、私の顔を見ても、少し遅れて「ああ、あなた」と言う。それが、悲しいのか、ほっとするのか、自分でもわからない。
あの鍵束は、結局、義母の実家のものだった。もう誰も住んでいない、古い家の鍵。私に渡したのは、たぶん「これからはあなたが守ってね」という意味だったのだろう。でも、私はその鍵を、夫の机の引き出しにしまったまま、一度も使っていない。
今でも、スーパーでレジを打っていると、ふと、あの鍵束の重さを思い出す。あれは、義母の家の鍵であると同時に、私の人生の鍵でもあったのかもしれない。そんなことを考えると、レジ袋に牛乳を入れながら、無性に泣きたくなる。でも、泣かない。泣いたら、何かが終わってしまう気がするから。
夫とは、今も普通に暮らしている。夕食を作り、洗濯をし、たまに二人でテレビを見る。でも、あの「仕事を辞めろ」と言われた夜から、何かが変わった。私の中で、夫は「一緒に暮らしている人」になった。それ以上でも、それ以下でもない。
娘からは、最近、LINEで「お母さん、自分のこと大事にしてね」と送られてきた。私は「ありがとう」とだけ返した。その言葉が、優しさなのか、無責任さなのか、私にはもう判断がつかない。
ただ、毎朝、自分の弁当を作るとき、卵焼きを少し甘くするのは、私の小さな抵抗だ。夫は甘い卵焼きが嫌いだ。でも、私は甘いのが好きだ。それだけで、少しだけ、自分の人生を取り戻したような気がする。たぶん、それでいいのだと思う。