リビングに置かれた老人ホームのパンフレットで義母が激怒した

リビングのテーブルに置かれた一枚の紙を、義母は指先でつまむようにして持ち上げた。表面に印刷された「有料老人ホーム パンフレット」の文字を見て、義母の口元がわずかに歪む。私はお茶を出そうと立ちかけたまま、動けなくなった。

「これ、何?」

声は静かだった。静かなだけに、空気が一気に冷えた気がした。

「お義母さん、あの、それは……」

「あんたが持ってきたの」

問いかけではなく、確認だった。私は何も言えずに、ただ台所の入り口に立っていた。手に持った湯呑みがやけに重い。

あれは三日前、ケアマネージャーの田中さんが置いていったものだった。夫の浩介と三人で話をした後、田中さんは「参考までに」と言って、数冊のパンフレットをテーブルに置いて帰った。そのうちの一冊が、なぜか今朝になって義母の目に留まった。

「お義母さん、違うんです。あれは、その、ケアマネさんが……」

「あんた、私を追い出したいの」

義母はパンフレットをテーブルに置いた。音はしなかった。ただ、紙が空気を撫でるような、かすかな気配だけがした。

「違います。追い出すなんて、そんなこと」

「じゃあ、なんでこんなものがあるの」

説明しなければ、と思った。でも、言葉が出てこない。浩介はもう仕事に出ていた。朝の八時前。私はこれからパートに行くところで、義母はデイサービスに行く日だった。

「お義母さん、あれは選択肢のひとつとして、田中さんが……」

「選択肢」

義母は私の言葉を繰り返した。声に感情が乗っていない分、余計に重く響いた。

「私、この家にいて迷惑なの」

「迷惑じゃないです。ただ、お義母さんの体のことを考えると、夜中に転んだりしたら……」

「転んでない」

「まだ、ですけど」

「まだ、って何」

義母はソファの背もたれに手を置いて、ゆっくりと腰を下ろした。膝が悪いから、座る動作だけでも時間がかかる。私は手を貸そうか迷ったけれど、義母の空気がそれを拒んでいた。

「あんたはいいわよね。若くて、仕事もあって、友達もいて」

「お義母さんだって、デイサービスでお友達……」

「あんなの、友達なんかじゃない」

義母は窓の外を見た。小さな庭に、洗濯物が揺れている。今朝、私が干したものだ。義母の下着も混ざっていた。それを毎日洗って、畳んで、引き出しにしまう。そういうことを、義母は知っているのか知らないのか。

「浩介は、このこと知ってるの」

「……知ってます」

「そう」

義母は短く息を吐いた。それから、テーブルの上のパンフレットをもう一度見た。表紙には、笑顔の老人と、明るい食堂の写真が載っていた。

「あんたたち、二人で決めたの」

「決めたっていうか、話をしただけで」

「私に何も言わないで」

「だから、今日、お義母さんがデイサービスから帰ってきたら、三人で話そうと思ってました」

「三人で」

義母は私の顔を見た。目が合った瞬間、私は視線を外しそうになった。でも、外さなかった。外したら、何か負ける気がした。

「私、この家を出るなら、一人で出る」

「お義母さん……」

「施設なんか、行かない」

義母は立ち上がった。今度は、私が手を貸す前に、自分の力で立ち上がった。膝が痛いはずなのに、意地で立っているのがわかった。

「お義母さん、朝ごはん、食べてください。デイサービスのお迎え、九時半ですよね」

「食べたくない」

「でも、お昼まで何も食べないと……」

「あんたに関係ない」

義母はそう言って、自分の部屋に戻っていった。襖が閉まる音が、やけに大きく聞こえた。

私は台所に立ったまま、湯呑みを流しに置いた。お茶を入れるのをやめた。手が震えているのが、自分でもわかった。

浩介にLINEを送ろうかと思った。でも、やめた。仕事中にこんな話をしても、どうにもならない。それに、浩介は浩介で、自分の母親のことを考えると、いつも黙ってしまう。あの人は、逃げているわけじゃない。ただ、何も言えなくなる。私も同じだ。

パート先のスーパーまでは自転車で十五分。着替えながら、義母の言葉が頭の中で繰り返された。

「あんたに関係ない」

関係ないわけがない。この家で一緒に暮らして十二年。義母の食事も、洗濯も、病院の予約も、薬の管理も、全部やってきた。関係ないと言われる筋合いはない。

でも、そういうことを言えば言うほど、自分が惨めになる気がした。

スーパーのバックヤードで、パートの同僚の美穂さんに「顔色悪いよ」と言われた。

「ちょっと、朝バタバタして」

「お義母さん、元気?」

「うん、まあ」

美穂さんは、私が義母と同居していることを知っている。以前、一度だけ愚痴を聞いてもらったことがある。そのとき美穂さんは、「うちも旦那の親と色々あったけど、結局、時間が解決したよ」と言った。時間が解決するなら、十二年でとっくに解決しているはずだ。

レジに立ちながら、私は義母のことを考えないようにした。でも、ふとした瞬間に、あのパンフレットの表紙が浮かぶ。笑顔の老人たち。あれは、作り物の笑顔だ。義母が言いたかったのは、そういうことかもしれない。

お昼休みに、浩介からLINEが来た。

「今日、早く帰れるかも」

既読をつけて、スタンプを返した。それ以上、何も書かなかった。

夕方、家に帰ると、義母はもうデイサービスから戻っていた。居間でテレビを見ていた。音量が大きい。耳が遠くなっているから、いつも大きい。

「ただいま」

声をかけたが、返事はなかった。テレビの音だけが、部屋に響いていた。

台所に行くと、シンクにコップがひとつ置いてあった。義母が水を飲んだらしい。洗おうとして、手を止めた。コップの横に、あのパンフレットが置いてあった。表紙が上向きで、笑顔の老人がこちらを見ていた。

私はパンフレットを手に取って、キッチンの引き出しにしまった。義母が置いたのか、ただそこにあったのか、わからない。でも、居間に持っていく気にはなれなかった。

夕食の支度をしていると、浩介が帰ってきた。

「ただいま」

「おかえり。早かったね」

「ああ、今日は会議がなくなって」

浩介はスーツの上着を脱ぎながら、居間の義母に「ただいま」と声をかけた。義母は「おかえり」と言った。私には返事をしなかったのに、浩介には返事をする。そういうことが、昔からあった。

三人で食卓を囲む。献立は、鮭の塩焼きと、ほうれん草のお浸しと、味噌汁。義母は箸を動かしながら、浩介にデイサービスの話をした。今日は折り紙をしたとか、職員の誰々が親切だったとか。浩介は「そう」とか「よかったね」とか、相槌を打つ。

私は黙って味噌汁を飲んだ。義母は私の方を一度も見なかった。

食事が終わって、浩介がお茶を飲みながら言った。

「母さん、この前、ケアマネの田中さんが置いていった資料、見た?」

義母はテレビのリモコンを手に取った。音量をひとつ下げる。

「見たわよ」

「どう思う?」

「どうも思わない」

浩介は私をちらりと見た。私は何も言わずに、食器を重ねた。

「別に、今すぐどうこうって話じゃないんだ。ただ、選択肢として知っておくのもいいかなと思って」

「選択肢ね」

義母はリモコンをテーブルに置いた。音が、かちりと鳴った。

「あんたたち、私がいない方が楽でしょう」

「そんなこと言ってないだろ」

「言わなくてもわかるわよ」

浩介はため息をついた。あの、何も言えなくなる時のため息だ。

「母さん、俺はただ、夜中に何かあったら心配だって言ってるんだよ」

「何もないわよ」

「今はね。でも、この前、廊下でふらついてたろ」

「あれは、ちょっと立ちくらみがしただけ」

「それが危ないんだって」

義母は黙った。テレビの中で、クイズ番組の出演者が笑っていた。明るい笑い声が、妙に浮いていた。

「私、まだ一人で暮らせるわよ」

義母は小さな声で言った。

「お義母さん、一人で暮らすって、どこでですか」

私が言うと、義母は初めて私の方を向いた。

「どこでもいいわよ。あんたたちがいないところなら」

浩介が「母さん」と咎めるように言った。でも、義母はもうテレビに視線を戻していた。

私は立ち上がって、食器を流しに運んだ。手が震えそうになるのを、食器の重さでごまかした。

夜、浩介と二人になった寝室で、浩介が言った。

「ごめん、朝、お前に任せて」

「別にいいよ」

「母さん、何か言ってた?」

「……あんたに関係ないって」

浩介は黙った。それから、布団の中で「そうか」とだけ言った。

「ねえ、浩介」

「ん?」

「私、もう限界かもしれない」

浩介は天井を見ていた。私は浩介の横顔を見ていた。暗い部屋の中で、浩介の輪郭だけがぼんやりと浮かんでいた。

「施設に入れるとか、そういうことじゃなくて」

「わかってる」

「私、お義母さんのこと、嫌いになりたくないの」

浩介は何も言わなかった。しばらくして、浩介の手が私の手に触れた。温かい手だった。でも、その温かさが、かえって苦しかった。

翌朝、義母はいつも通りに起きてきて、いつも通りに朝食を食べた。私が作った味噌汁を、何も言わずに飲んだ。それが、昨日のことをなかったことにしているのか、それとも、ただ単に空腹だったのか、わからない。

私は義母の薬をテーブルに置いた。義母はそれを黙って飲んだ。指先が少し震えていた。年のせいなのか、気のせいなのか。

「お義母さん、今日はデイサービス、お休みしますか」

「行くわよ」

「そうですか」

「あんたに迷惑かけないようにね」

義母はそう言って、立ち上がった。その言葉が、棘のように胸に刺さった。

デイサービスの車が来るまで、二人で居間に座っていた。テレビはついていなかった。時計の音だけが、かちかちと鳴っていた。

「お義母さん」

「何」

「昨日のことは、私も言い過ぎました。ごめんなさい」

義母は窓の外を見ていた。庭の洗濯物は、もう取り込んであった。

「あんたが謝ることないわよ」

義母はそう言った。声は、昨日より少しだけ柔らかかった。

「私も、あんな言い方しなくてよかったわ」

義母がそう言ったのは、初めてだった。私は驚いて、義母の顔を見た。義母はまだ窓の外を見ていた。その横顔は、少しだけ疲れているように見えた。

デイサービスの車が来て、義母は出かけていった。玄関で見送ると、義母は振り返らずに車に乗り込んだ。

家に一人になると、急に静かになった。私は居間のソファに座って、しばらく動けなかった。

パンフレットは、まだキッチンの引き出しに入ったままだった。私はそれを取り出して、もう一度見た。笑顔の老人たち。明るい食堂。手厚い介護。どれも、きれいごとに見えた。

でも、義母の「私も、あんな言い方しなくてよかったわ」という言葉が、頭の中で繰り返されていた。

あの人は、あれで精一杯の謝罪をしたのかもしれない。私に謝るのが、どれだけ悔しかったか。それを思うと、胸のあたりが重くなった。

私はパンフレットを引き出しに戻した。まだ、捨てることはできなかった。

夕方、義母がデイサービスから帰ってきた。いつもより少し遅い時間だった。

「ただいま」

「おかえりなさい」

義母は私の顔を見て、小さく頷いた。それから、自分の部屋に戻っていった。

台所で夕食の支度をしていると、義母が部屋から出てきて、台所の入り口に立った。

「ねえ」

「はい」

「今日、デイサービスでね、折り紙の鶴を折ったの」

義母は手に小さな折り鶴を持っていた。金色の折り紙で、丁寧に折られていた。

「上手ですね」

「施設の職員さんに教えてもらったのよ」

義母は折り鶴を私に差し出した。

「あげる」

私は驚いて、折り鶴を受け取った。手のひらに乗せると、思ったより軽かった。

「ありがとうございます」

義母は何か言いたそうにしていたが、結局何も言わずに居間に行ってしまった。

私は折り鶴を、キッチンの窓辺に置いた。金色の鶴が、夕日を受けて光っていた。

浩介が帰ってきて、夕食のとき、義母はまたデイサービスの話をした。折り紙の話、職員の話、他の利用者の話。浩介は相槌を打ちながら、時々私を見た。私は黙って、鮭の骨を取っていた。

「母さん、折り紙、楽しいんだ」

「まあね。指先を使うと、ぼけないらしいわよ」

「いいじゃん」

義母は少し嬉しそうに笑った。その笑顔を見て、私は少しだけほっとした。

でも、心のどこかで、まだ引っかかっているものがあった。あのパンフレットのこと、義母の「あんたに関係ない」という言葉、浩介のため息。全部が、まだ消化できていなかった。

夜、浩介が「今日は母さん、機嫌よかったな」と言った。

「うん、折り鶴くれた」

「へえ、珍しい」

「私もびっくりした」

浩介は笑った。私も笑った。でも、笑いながら、心の中は晴れなかった。

たぶん、明日になれば、また何かが起きる。義母はまた、私に当たるかもしれない。私もまた、義母に言い返すかもしれない。そういうことの繰り返しなのだと思う。

でも、今日もらった折り鶴を、私は捨てられないでいる。窓辺に置いたまま、時々目で追っている。

あの金色の鶴が、何かを変えてくれるわけではない。でも、義母が私に何かを渡そうとしたことだけは、確かだった。

それだけで、今日は眠れる気がした。