長男が婚約者を連れて実家に転がり込んできた話
夕方のスーパーで、半額シールの貼られた刺身パックに手を伸ばした瞬間、スマホが震えた。画面には「長男」の文字。買い物かごを床に置いて、生鮮コーナーの隅で通話ボタンを押した。
「もしもし」
「あ、母さん。今、大丈夫?」
声の調子で、何か言いにくいことがあるのはすぐ分かった。カツオのたたきをかごに入れながら、大丈夫だよ、と短く返す。
「あのさ、相談っていうか……マルタと一緒に、そっちに引っ越してもいいかなって」
手が止まった。マルタは長男のカツペルが三年前から付き合っている婚約者で、去年の秋に一度だけ家に連れて来た。明るくて気の利く子だったが、二人で住むには我が家は狭すぎる。
「どうしたの、急に」
「大家さんに立ち退きを言われて。建て替えだって。次の部屋が見つかるまででいいから」
私は携帯を耳に当てたまま、冷凍食品の前を通り過ぎた。頭の中では家計簿がめくれている。児童扶養手当とパート代、それに夜の清掃バイト。下の子のミハウはまだ中学生で、塾代もかかる。
「母さん、無理ならいいんだ。でも、ほかに頼れるところがなくて」
カツペルの声は小さかった。この子が人に頼むときは、いつも語尾が消える。小学生の頃、学芸会の衣装を忘れて職員室に電話してきたときと同じだ。
「分かった。ちょっと考える。明日また電話する」
そう言って切ったあと、レジに並びながら、二人分の刺身を戻して、豆腐と卵を買い足した。
家に帰ると、ミハウがリビングの床に寝転んでスマホをいじっていた。テーブルの上には食べ終わったカップ麺の容器。
「またそれ? ちゃんと火を通したもの食べなさい」
「めんどくさい」
私は買ってきた袋を台所に置き、手を洗ってから、ミハウの隣に座った。テレビではクイズ番組が流れている。
「兄ちゃんから電話あったよ。マルタさんと一緒に、しばらくうちに住みたいって」
ミハウは画面から目を離さずに、「ふーん」とだけ言った。
「お前はどう思う?」
「別に。兄ちゃんが決めればいいじゃん」
「ここに住むんだよ。お前の部屋、半分使わせることになるかもよ」
そのとき初めてミハウは顔を上げた。眉間にしわが寄っている。
「え、俺の部屋? なんで。リビングでいいじゃん」
「リビングに二人は無理でしょ。カーテンもないし、落ち着かないよ」
「じゃあ断ればいいじゃん。なんで母さんが困るの」
ミハウは再びスマホに視線を落とした。親指が画面をすべる。私は何か言おうとして、やめた。中学生に家族の経済事情を全部話す気にはなれない。
翌日、仕事の休憩時間にカツペルへ電話した。物流倉庫のピッキング作業の合間、外の喫煙所で壁にもたれて。
「条件があるの。家賃は二人で三万入れて。食費も一万ずつ。それから、ミハウの前でいちゃいちゃしない」
「当たり前だよ、そんなの。三万でいいの?」
「こっちの生活もあるから、それで精一杯。光熱費は折半ね」
「分かった。ありがとう、母さん。マルタも喜ぶ」
電話を切ったあと、私は空を見上げた。曇っていた。タバコを吸わないのに、喫煙所の匂いが髪に染みつく。
引っ越しは土曜日だった。カツペルとマルタは、レンタカーに段ボールを積んで現れた。二人の荷物は思ったより少なくて、布団と衣類ケース、それから小型の冷蔵庫。うちの冷蔵庫は古くて小さいから、自分たちで買ったらしい。
「お邪魔します」
マルタは玄関で深々と頭を下げた。黒いスウェットにポニーテール。肌が白くて、まつげが長い。若いな、と思った。まだ二十四だ。
「狭いけど、好きに使って。トイレと風呂は順番ね」
私は笑いながら言った。マルタも笑った。カツペルは段ボールを抱えたまま、リビングと自分の部屋だった場所を交互に見ていた。
「ミハウ、手伝えよ」
「えー、今ゲームしてるし」
「いいから来い」
兄弟のやりとりを聞きながら、私は台所で麦茶をわかした。引っ越しの荷物が廊下に積まれると、家の中が急に他人のものになった気がした。
最初の一週間は、それなりにうまくいった。マルタは朝早く出て、夜は八時ごろ帰ってくる。介護施設のパートらしい。カツペルは相変わらず夜勤が多い。夕食の時間が合わない日は、各自で食べるという暗黙のルールができた。
ただ、生活費の支払いが最初から遅れた。約束の月末になっても、カツペルからお金の話が出ない。三日待って、四日目にLINEを送った。
「家賃の分、いつもらえる?」
既読はついたが返事はなかった。夜になって、カツペルが台所に来た。冷蔵庫を開けながら、背中越しに言う。
「ごめん、給料日が来月の十日でさ。それまで待ってくんない?」
「先月の分は?」
「引っ越しで飛んだ。敷金礼金、あとレンタカー代」
私は黙って茶碗を洗った。カツペルは牛乳をコップに注いで、一気に飲んだ。
「マルタは?」
「あいつも今月きついって。施設の給料、二十日締めの月末払いだから」
「そういうことは先に言ってほしい」
「ごめん」
カツペルはコップを流しに置くと、足早に部屋へ戻った。洗い物の泡が指のあいだで冷たかった。
翌朝、マルタが台所に立っていた。私が起きると、トーストが二枚焼けていて、コーヒーも入れてあった。
「おはようございます。これ、よかったら」
「あら、ありがとう。自分でやるからいいのに」
「私、朝はどうしてもお腹すいちゃって。ついでなんで」
マルタはそう言って、自分のトーストにジャムを塗った。私はコーヒーを一口飲んだ。少し濃かった。
「あの、お金のこと、すみません。私も来月には必ず」
「いいのよ、カツペルから聞いてる。無理しないで」
「でも、家に置いてもらってるのに」
マルタはうつむいて、トーストの耳をちぎった。その指先が細くて、爪の甘皮がささくれていた。介護の仕事で手荒れするのかもしれない。
「ねえ、マルタさん。ひとつだけお願いがあるの」
「はい」
「夜、遅くに洗濯機回すの、やめてもらえる? ミハウが寝られないって」
マルタの顔が一瞬で赤くなった。
「すみません、気づかなくて。帰りが遅いから、つい」
「うん、分かってる。でも、うちの壁薄いから」
「気をつけます」
その日の夜、マルタは風呂場で手洗いをしていた。小さなバケツに水を張って、制服を押し洗いする音が、リビングまで聞こえた。私は何も言わずにテレビの音量を一つ上げた。
週末、実家の母から電話があった。月に一度の近況報告。母は私が離婚してから、ことあるごとに「あんたは甘い」と言う。
「聞いたよ、カツペルが彼女連れて戻ったんだって?」
「誰から」
「ミハウが電話で言ってた。狭い家に四人は無理でしょ。あんた、また自分を犠牲にして」
「犠牲なんかじゃないよ。助け合いだよ」
「助け合い? 家賃も払えないんでしょ。あの子、昔からそう。あんたに甘えて」
私は受話器を耳から離した。母の声は小さくても刺さる。正論だから余計に。
「ちゃんと話し合ってるから。心配しないで」
「あんたが倒れたら、ミハウはどうするの。自分の体、大事にしなさいよ」
「はいはい」
電話を切ると、リビングの窓から夕焼けが見えた。オレンジと紫のあいだの色。私はソファに座って、しばらく動けなかった。
その夜、カツペルがめずらしく早く帰ってきた。手にコンビニの袋を提げている。
「母さん、これ。アイス買ってきた」
「どうしたの、急に」
「いや、別に。ミハウと食おうと思って」
袋の中には、私の好きな抹茶のアイスも入っていた。三人でテーブルを囲んで食べた。マルタはまだ帰っていない。
「仕事、どう?」と私が聞くと、カツペルはスプーンをくわえたまま「まあ、ぼちぼち」と答えた。
「夜勤ばかりだと体壊すよ」
「分かってる。でも、今は金貯めたいから」
「貯金、できてるの?」
カツペルは答えずに、アイスのふたを開けた。ミハウが「兄ちゃん、それ俺のと違う味じゃん」と言って、カツペルのアイスをのぞき込む。
「うるせえ、半分やるから」
兄弟が並んでアイスを食べる姿を見ていると、昔に戻ったみたいだった。あの頃は三人で、この部屋で、もっと狭くても笑ってた。
でも、今は違う。マルタが帰ってくると、空気が少し変わる。悪い子じゃない。むしろ気を遣いすぎて、こっちが疲れるときがある。
「おかえりなさい」
玄関でマルタが小さく頭を下げる。私は「おかえり」と返しながら、洗濯機のタイマーを確認する。夜の十時。回しても大丈夫な時間だ。
「今日、利用者さんがね、私の手を握って離さなくて」
マルタは台所で手を洗いながら、ぽつぽつと仕事の話をする。私は相づちを打ちながら、明日の弁当の準備をする。
「私、この仕事、向いてないのかなって思うときがあるんです」
「どうして?」
「感情移入しすぎて、家に帰っても引きずるんです。カツペルにも、八つ当たりしちゃうし」
私は卵焼きを巻きながら、マルタの横顔を見た。若い頃の自分に似ていると思った。離婚する前、毎日泣きながら子どもを風呂に入れていた頃の自分に。
「向いてないんじゃなくて、慣れてないだけだよ。三年続けたら、また違うよ」
「そうですかね」
「そうだよ。私もパート始めた頃は、レジ打ちながら吐きそうだったもん」
マルタが初めて、ふっと笑った。鼻の頭にしわが寄る。かわいい子だな、と思った。
月末、カツペルから封筒を受け取った。中には三万五千円。約束より五千円少ない。
「ごめん、今月はこれが限界で」
「五千円、どうしたの」
「マルタの実家に送った。向こうも苦しいらしくて」
私は封筒をテーブルに置いた。カツペルは立ったまま、私の返事を待っている。
「来月はちゃんと払うから」
「……分かった。でも、これ以上は無理よ。ミハウの塾代もあるし」
「うん」
カツペルは部屋に戻ると、マルタと小声で何か話していた。壁越しに、マルタの「ごめん」という声が聞こえた。
私は台所で、封筒の中身を数えた。千円札が三十五枚。古い札ばかりで、誰かが長いあいだ財布に入れていたような匂いがした。
次の日、ミハウが学校から帰るなり言った。
「母さん、修学旅行の積立、今月で最後だって。あと二万」
「分かってる。ちゃんと払ってあるよ」
「よかった。あ、あと、塾の夏期講習、申し込んでいい?」
私は冷蔵庫を開けたまま、しばらく動けなかった。卵が三個しかない。牛乳も残り少ない。
「夏期講習、いくら?」
「三教科で五万ちょい」
「ちょっと考える」
「えー、みんな行くよ。行かないと置いてかれる」
「分かってる。ちょっと考えるって言ってるでしょ」
ミハウは不満そうに自分の部屋へ行った。ドアが少し強く閉まる。私は冷蔵庫を閉めて、買い物リストに「卵」と書いた。
夜、マルタが私の隣に座って、小さな封筒を差し出した。
「これ、私の分です。少ないですけど」
中には一万円。きれいに折りたたまれた札が二枚。
「いいの? カツペルからもらってるから」
「いえ、私の食費とか光熱費とか。ちゃんと払いたいんです」
「ありがとう。助かる」
マルタはほっとしたように笑った。その笑顔を見て、私はこの子を追い出すことはできないと思った。でも、このままでは自分がもたないことも分かっていた。
日曜日、カツペルと二人で近所のファミレスに行った。ミハウは友達と出かけ、マルタは仕事だった。
「母さん、話って何?」
「今後のこと。いつまでここにいるつもり?」
カツペルはドリンクバーのコーヒーをかき混ぜながら、視線を落とした。
「秋までには出たいと思ってる。マルタも正社員探してるし」
「本当に?」
「本当だよ。俺だって、いつまでも実家に彼女連れて住んでるの、恥ずかしいし」
「恥ずかしいなら、もう少しお金のことも考えなさい」
「……はい」
私はハンバーグを切った。ナイフが皿に当たる音が、やけに大きく聞こえた。
「母さん、俺さ、マルタと結婚しようと思ってる」
フォークが止まった。
「それで、ちゃんと二人で暮らす。だから、あと少しだけ待っててほしい」
「結婚するの?」
「うん。まだプロポーズはしてないけど、するつもり」
私は水を飲んだ。氷が溶けて、味が薄くなっていた。
「母さんは反対?」
「反対じゃないよ。でも、生活の基盤がないうちに結婚しても、苦労するのは二人だよ」
「分かってる。だから今、頑張ってる」
カツペルの目は真っ直ぐだった。この子がこんな顔をするようになったのは、いつからだろう。離婚したときはまだ小学生で、ミハウと一緒に泣いてばかりいたのに。
「分かった。でも、約束して。秋までには出ていくって」
「うん、約束する」
ファミレスを出ると、外は雨が降り始めていた。傘を持っていなかったので、二人で小走りに帰った。カツペルが「母さん、こっち濡れないように」と、自分の上着を私の頭の上にかざした。
「あんたが濡れるでしょ」
「俺は平気」
家に着くと、マルタが玄関でタオルを渡してくれた。ミハウはリビングでゲームをしながら「おかえり」と言った。
「ただいま」
私は濡れた髪を拭きながら、四人分の夕食を作り始めた。冷蔵庫にあったキャベツと豚肉で、野菜炒め。味噌汁は豆腐とわかめ。
食卓には四人が座った。テレビは消してある。マルタが「いただきます」と言うと、ミハウも小さく続いた。
「今日、施設でね、おばあちゃんが私のことを孫だと思って、お小遣いくれようとしたんです」
マルタの話に、ミハウが「へえ」と相づちを打つ。カツペルは黙って野菜炒めを食べている。
「断ったら、怒っちゃって。『遠慮するんじゃないの』って」
「いい人だね」と私が言うと、マルタは「はい、でも、お金は受け取れないから、代わりに折り紙で鶴を折ってあげました」と笑った。
「マルタさん、折り紙得意なの?」
「得意っていうか、利用者さんに教えてもらったんです。最近、毎日折ってます」
食卓の空気が、少しだけ柔らかくなった。ミハウが「俺、鶴折れない」と言うと、マルタが「今度教えようか?」と返す。ミハウは照れて「いい」とそっぽを向いた。
夜、布団に入ってから、天井を見つめた。隣の部屋から、カツペルとマルタの話し声がかすかに聞こえる。内容は分からない。でも、ときどきマルタの笑い声がして、カツペルが「しーっ」と制する気配がした。
私は目を閉じた。明日は朝五時起きで、清掃の仕事が入っている。体は疲れているのに、なかなか眠れなかった。
秋まで、あと三か月。長いようで短い。短いようで長い。
私は布団の中で、もう一度だけ家計簿を頭の中でめくった。そして、来月から夜の清掃バイトを週二回から三回に増やそうと決めた。誰にも言わずに。
外では雨がまだ降っていた。雨音が屋根を叩く。私はその音を聞きながら、ようやく少しだけ眠くなった。