3週間、台所で寝ていました
冷蔵庫のモーター音が、やけに頭に響く夜だった。床に敷いた薄い布団の上で、足を縮めている。キッチンの床はタイル貼りで、いくら五月でも夜になると冷える。隣のリビングからは、夫と息子の笑い声が聞こえていた。テレビの音もする。楽しそうだな、と思った。私はもう三週間、ここで寝ている。
きっかけは些細なことだった。夕飯の片付けをしているとき、手が滑って小鉢を一枚割ってしまった。それだけのことだ。でも、その音を聞いた嫁の美咲さんが、台所に来るなり言った。
「お義母さん、またですか。最近ちょっと、色々と危なっかしいですよ」
「ごめんね、手が滑っちゃって」
「滑ったで済む年じゃないと思うんですけど」
その言い方が、やけに冷たかった。翌日、息子の健太が申し訳なさそうに言ってきた。
「母さん、悪いんだけど、しばらく寝室は美咲が使いたいって言うんだ。子どもが夜中に起きると、隣の部屋の物音が気になるらしくて」
「じゃあ、私はどこで寝ればいいの」
「リビングの隣の和室は、今物置になってるし……台所の隅で悪いけど、ちょっとだけ我慢してもらえないかな」
「ちょっとだけって、どのくらい」
「それは、まあ、美咲と相談するけど」
健太は目を合わせなかった。それから三週間、何も変わっていない。むしろ、私の布団は毎朝畳んで、食器棚の横に立てかけておくのが当たり前になった。昼間はリビングにいてもいいが、夜になると自分の居場所がなくなる。台所の電気を消して、換気扇の下で丸くなって寝る。朝は誰よりも早く起きて、布団を片付ける。そうしないと、美咲さんが朝食の準備をするときに邪魔になるから。
美咲さんは、決して暴言を吐くような子ではない。むしろ、近所の人にはきちんと挨拶するし、子どもの学校の役員も引き受けている。ただ、私に対してだけ、空気のように扱う。いや、空気ならまだいい。時々、邪魔な家具を見るような目をする。
「お義母さん、今日はお昼いらないんでしたっけ」
「うん、出かけるから」
「そうですか。じゃあ、自分の分は自分でやってくださいね。私、パートあるんで」
そういう言い方をする。私だって、昼くらい自分でなんとかする。でも、何かにつけて「自分のことは自分で」と言われると、ここにいてはいけないような気持ちになる。
夫はどうしているかというと、何も言わない。いや、気づいていないふりをしている。定年後に再雇用で働き始めてから、家のことは全部私に任せてきた。今は私が台所で寝ていても、夜中に水を飲みに来たついでに「寒くないか」と一度聞いただけだ。
「大丈夫だよ」
そう答えた。本当は寒いし、腰も痛い。でも、言ったところで何かが変わるとは思えなかった。
ある夜、目が覚めてしまって、トイレに行こうと起き上がった。リビングの明かりが漏れている。ドアが少し開いていて、美咲さんと健太の声が聞こえた。
「ねえ、お義母さん、いつまであそこに寝かせるつもり?」
「いや、だから、部屋を片付けたら和室に移ってもらうから」
「片付けるって、あの物置みたいな部屋を? あそこ、お義母さんの荷物ばっかりじゃない。捨てるって言ったら、また怒るんでしょ」
「怒らないよ、母さんは」
「そういう問題じゃなくて。そもそも、なんで私たちが気を遣わなきゃいけないの。家のローン、あんたが払ってるんでしょ。お義母さんは年金だけで、食費も光熱費も入れてくれてないよね」
「それは、母さんなりのやりくりがあるんだよ」
「やりくりって。孫の学資保険も払えないのに、自分の服は買ってるじゃない」
声が詰まった。私はその場にしゃがみ込んだ。トイレに行くのも忘れて、冷たい廊下に座っていた。私が買った服なんて、しまむらのセールで千円もしないものだ。それすら、あの子には無駄に見えるんだ。
翌朝、私はいつも通り五時半に起きて、布団を畳んだ。顔を洗って、台所の隅でコーヒーを一杯だけ飲んだ。誰も起きてこない静かな時間が、一日で一番ほっとする。
その日、私はスマホで高校時代の友人、佐伯由紀子にLINEを送った。由紀子とは、年に一度会うか会わないかだったが、年賀状のやり取りだけは続いていた。
「突然で悪いんだけど、少し泊めてもらえないかな」
既読がついて、すぐに返事が来た。
「どうしたの、大丈夫?」
「大丈夫じゃないかもしれない」
「いつでもおいで。うち、二階空いてるから」
その返事を見て、涙が出た。声を出さずに泣いた。台所の窓から朝の光が入ってきて、シンクの水滴が光っていた。
その日の夕方、私は小さなボストンバッグに着替えと通帳と薬を詰めた。健太が帰ってくる前に家を出ようと思った。でも、ちょうど玄関で鉢合わせになった。
「母さん、どこ行くの」
「由紀子さんのところに、しばらくお世話になるわ」
「は? 急に何言ってるの」
「急じゃないよ。三週間、ずっと考えてた」
健太は靴を脱ぎながら、困ったような顔をした。
「美咲に何か言われた?」
「何も言われてない。でも、私がいない方がいいと思っただけ」
「そんなことないよ。母さん、ちょっと疲れてるんだよ。今日はゆっくり休んだら」
「台所で?」
そう言うと、健太は黙った。下を向いて、靴紐をいじっていた。
「ごめん」
小さな声だった。でも、その「ごめん」が何に対してなのか、私にはわからなかった。私を台所に追いやったことか、それとも、何もできなかった自分に対してか。
「いいよ、もう。自分のことは自分でするから」
美咲さんがよく言う言葉を、そのまま使った。健太は何か言いたそうだったが、私は靴を履いて外に出た。
駅までの道を歩きながら、何度か振り返りそうになった。家の二階の窓に、孫のランドセルが見えた。あの子は何も知らない。知らなくていい。
電車に乗って、由紀子の最寄り駅で降りた。改札を出ると、由紀子が立っていた。私を見つけて、小さく手を振った。
「来たね」
「来ちゃった」
「お腹すいてるでしょ。何か買って帰ろう」
由紀子は、私のボストンバッグをひょいと持って、駅前のスーパーに向かった。私はその後ろを、何も考えずに歩いた。夕方の風が、少しだけ生ぬるかった。
由紀子の家は、駅から歩いて十分ほどの小さな一軒家だった。夫を五年前に亡くして、今は一人で暮らしている。子どもは遠方にいるらしい。
「狭いけど、二階の六畳、自由に使っていいから」
「ありがとう。本当にごめんね」
「いいのよ。私も一人だと、話し相手がいなくて寂しかったの」
そう言って、由紀子は買ってきた惣菜を並べた。肉じゃがと、ほうれん草のお浸しと、炊き込みご飯。久しぶりに、誰かと向かい合って食べる夕食だった。
「で、何があったの」
由紀子は、箸を置いて聞いてきた。私は、台所で寝ていたこと、小鉢を割ったこと、健太が何も言わなかったこと、美咲さんの声を聞いてしまったことを、順番に話した。由紀子は途中で何度か「ええっ」と言ったが、最後まで遮らなかった。
「あんた、よく我慢したね」
「我慢してたつもりはないの。ただ、どうしたらいいかわからなかった」
「普通は、もっと怒っていいよ」
「怒る元気もなかった」
由紀子は、お茶を注いでくれた。湯気が立つ湯呑みを両手で包みながら、私は小さく息を吐いた。
「でも、家を出てきて正解だったと思うよ。あのままじゃ、あんた、壊れてたよ」
「そうかな」
「そうだよ。台所で寝るなんて、おかしいよ。いくら何でも」
由紀子の声は、怒っているようで、悲しんでいるようでもあった。私は、湯呑みの中の茶色い水面をじっと見ていた。
その夜、二階の六畳で布団を敷いて横になった。窓の外から、遠くの踏切の音が聞こえる。冷蔵庫の音はしない。床は畳で、ほんの少しだけ草の匂いがした。
スマホを見ると、健太からLINEが来ていた。
「母さん、今日はごめん。美咲と話した。和室を片付けるから、戻ってきてほしい」
私はしばらく画面を見てから、返事を打った。
「少し、一人で考えさせて」
送信して、スマホを伏せた。畳の上に仰向けになって、天井を見る。知らない天井だった。でも、不思議と嫌ではなかった。
翌朝、由紀子が作ってくれた味噌汁を飲みながら、私はぼんやりと今後のことを考えた。年金は月に六万円ほど。貯金は、少しだけある。由紀子に家賃を払うと言ったら、「そんなのいらない」と断られた。でも、いつまでも甘えるわけにはいかない。
「ねえ、由紀子」
「なに」
「私、パートでも探そうかな」
「いいんじゃない。あんた、昔から働き者だったもんね」
「でも、六十過ぎて雇ってくれるところあるかな」
「あるよ。スーパーの品出しとか、清掃とか。探せばいくらでもある」
由紀子は、漬物を箸でつまみながら、あっさりと言った。その言い方が、妙に心強かった。
昼前、健太からまたLINEが来た。
「美咲も、言い過ぎたって反省してる。母さんに謝りたいって」
私は、その文面を二度読んだ。美咲さんが反省しているかどうかはわからない。でも、健太が必死なのは伝わった。
「今週末、一度帰るね。話だけ聞くから」
そう返信した。送った後、少しだけ胸がざわついた。帰りたくないわけではない。でも、あの台所の床を思い出すと、足がすくむ。
夕方、由紀子と近所のスーパーに買い物に行った。半額になった刺身を二人で選んで、レジに並ぶ。何でもない時間だった。でも、誰かの家で、誰かの目を気にせずに、普通に買い物をしている自分が、少しだけ遠くにいるように感じた。
「今日は、刺身で一杯やろうか」
由紀子が笑った。
「あんた、お酒飲めたっけ」
「飲めるよ、少しだけ」
「じゃあ、決まり」
家に帰って、台所で由紀子が刺身を盛り付けるのを手伝った。醤油皿を出して、箸を並べる。そういえば、こうやって誰かと台所に立つのは、何年ぶりだろう。
夜、二人で缶チューハイを開けた。由紀子は、昔の話をした。高校の文化祭で、私が転んだ話。修学旅行で、同じ班だった話。どれも懐かしくて、笑った。笑うと、体のどこかが緩む気がした。
「あんたさ、無理して戻らなくていいからね」
由紀子が、少し酔った声で言った。
「うん」
「家族だからって、我慢しなきゃいけないことばかりじゃないよ」
「うん」
私は、刺身のツマを箸でつまみながら、小さくうなずいた。窓の外では、虫の声がしていた。もうすぐ六月になる。