隣の奥さんに相談された、母の介護のこと
夕飯の支度をしていたら、台所の窓から隣の奥さんが自転車を押して帰ってくるのが見えた。ちょうど五時半。今日はパート、休みのはずなのに、と思った。手元では大根を薄切りにしている。包丁の音だけがやけに大きく響いて、なんだか落ち着かなかった。
その日、夫はまだ帰ってきていなかった。定年后再雇用で働いているから、帰りはだいたい七時過ぎ。息子は一人暮らしで、娘は結婚して千葉にいる。家の中は静かだった。
大根を鍋に入れてから、スマホを手に取った。特に用はない。ただ、なんとなく見てしまう。LINEを開くと、妹からスタンプが一つ届いていた。先週送った「母の様子どう?」というメッセージに、まだ返事がなかったのに、スタンプだけ来た。それ以上追いかける気にもなれず、既読をつけたまま台所に戻った。
母は三年前からグループホームにいる。要介護2。認知症の診断がついてから、最初は私が週に二回、実家に通って様子を見ていた。でも、夜中に外へ出ようとしたり、火を使おうとしたりすることが増えて、妹と話し合って施設にお願いした。費用は母の年金と、私と妹で折半している。妹は「お姉ちゃんのほうが近いから」と言って、手続きも見舞いもほとんど私任せだった。それでも、母の顔を見に行くと、たまに私のことを「あんた、誰だっけ」と言う。そのたびに、胸のあたりがすっと冷たくなる。
鍋が煮立ってきたので、弱火にして味噌を溶いた。夫が帰ってきたら、あと一品、冷奴でも出そうと思った。冷蔵庫を開けると、昨日買った豆腐が目に入る。賞味期限は明日。大丈夫だ。
そのとき、玄関のチャイムが鳴った。時計を見ると六時を少し回ったところ。宅配便だろうか。手を拭いて玄関に出ると、ドアの向こうに隣の奥さんが立っていた。五十代半ばくらいの人で、普段はあまり話さない。挨拶はするけれど、それ以上でも以下でもない。
「こんばんは。あの、これ、よかったら」
彼女は小さな紙袋を差し出した。中には、近所の和菓子屋の最中が入っていた。
「おすそ分けです。今日、実家に帰ったら、たくさんあって」
「あら、わざわざすみません」
受け取ると、彼女はほっとしたように笑った。でも、そのまま帰ろうとしない。何か言いたそうに、視線が少し下を向いている。
「あの、奥さん、ちょっとだけ、お時間ありますか」
私は少し迷った。鍋は火を止めてある。夫が帰るまでまだ一時間近くある。
「ええ、大丈夫ですよ」
そう言うと、彼女は小さく息を吸って、こう続けた。
「実は、うちの母のことなんですけど」
話を聞くと、彼女の母親は地方で一人暮らしをしていて、最近、物忘れがひどくなってきたらしい。病院ではまだ診断がついていないけれど、買い物に行って同じものを何度も買ってきたり、ガスの火を消し忘れたりすることがあるという。
「私、仕事もあるし、子供もまだ手がかかるし、なかなか帰れなくて。奥さん、お母さまのことで色々経験されてるって聞いたので、ちょっとお話を聞けたらと思って」
私は「ああ、そういうことか」と思った。近所でそんな話が回っているのか。誰が言ったのかはわからないけれど、母のことを知っている人がいるらしい。
「大したことは何もしてないですよ。うちも妹と二人で、手探りでしたから」
そう答えながら、私は彼女の顔をまっすぐ見られなかった。母のことを「経験」と言われると、なんだか自分のしてきたことが急に薄っぺらく感じる。実際、私がしてきたのは、役所に書類を出したり、施設の見学に行ったり、母の持ち物に名前を書いたり、そういう事務的なことばかりだ。心の通った世話なんて、ほとんどできていない。
「でも、やっぱり最初はどこに相談したらいいかもわからなくて。地域包括支援センターって、本当に話を聞いてくれるんですか」
彼女の声は真剣だった。私は知っている範囲のことを話した。まずは実家の近くの地域包括支援センターに電話して、母親の様子を伝えること。介護保険の申請をして、認定調査を受けること。ケアマネージャーが決まれば、その人と相談しながらサービスを組み立てていくこと。
「私の場合は、母が一人で住んでいたから、最初はデイサービスから始めて、しばらくしてグループホームに移りました。急に全部を変えるのは、母も混乱するし、私たちも大変だったから」
彼女は何度も頷きながら聞いていた。時々「そうなんですね」と相槌を打つ。その声が少し震えているように聞こえたのは、気のせいかもしれない。
「やっぱり、最後は施設に入れることになるんでしょうか」
「人によると思います。在宅で頑張ってる人もたくさんいますし、ご主人や兄弟の協力があるかどうかでも変わってくるし」
「うちは、兄がいるんですけど、兄は母のことを『まだ大丈夫だ』って言ってて。全然話にならなくて」
彼女はそう言って、唇をぎゅっと結んだ。私は「ああ、そういうこと、あるよね」と思った。妹の顔が浮かんだ。母の施設の費用の振込が遅れたとき、妹に連絡したら「忙しくて忘れてた」とだけ返事が来た。それ以上は何も言わなかった。言えなかった。
「お兄さん、近くに住んでるんですか」
「いえ、兄は東京。私はこっちで結婚したから、母とは離れてて。でも、兄はたまに電話するだけで、母の本当の状態を知らないんです」
「わかります。うちも妹がそうでした。近くにいないと、なかなか実感できないんですよね」
そう言いながら、私は少しだけ救われた気持ちになった。妹を責める資格なんて、私にもない。母の異変に最初に気づいたのは、たまたま私が近くにいたからだ。それだけのことだ。
「奥さんは、お母さまに会いに行くの、辛くないですか」
突然の質問に、私は言葉に詰まった。辛くないと言えば嘘になる。でも、辛いと言ってしまうと、母を拒否しているように聞こえる気がした。
「……どうなんでしょうね。会いに行くと、たまに機嫌がいい日があって、そういうときは昔の話をしたりするんです。でも、次の週に行くと、私のことを知らない人みたいに扱われたりして。その繰り返しだから、慣れたのかもしれないです」
「慣れるものなんですか」
「慣れるというか、期待しないようになっただけです」
彼女は黙ってしまった。私は言い過ぎたかもしれないと思った。でも、取り消すこともできなかった。
「すみません、暗い話になっちゃって」
「いえ、私のほうこそ、急に押しかけて。すみませんでした」
彼女は頭を下げて、今度こそ帰っていった。私は紙袋を手に持ったまま、しばらく玄関に立っていた。外はもう暗くなりかけていて、隣の家の窓に明かりがつくのが見えた。
台所に戻ると、鍋はすっかり冷めていた。もう一度火をつけて、味噌汁を温め直す。冷奴を切って、皿に並べる。夫が帰ってきたら、いつも通り「おかえり」と言って、夕飯を出す。それだけのことなのに、今日はやけに手間がかかる気がした。
七時十分に夫が帰ってきた。スーパーの袋を提げている。
「駅前で半額の刺身があったから買ってきた」
「あら、じゃあ冷奴やめようか」
「いや、豆腐は豆腐で食うよ。刺身は酒のつまみにする」
夫はそう言って、ネクタイを緩めながら洗面所へ向かった。私は刺身を小皿に移して、醤油とわさびを用意した。夫が戻ってきて、テレビをつける。ニュース番組が流れ始めた。
「今日、隣の奥さんが来たよ」
「へえ、何かあったのか」
「お母さんのことで相談したいって。物忘れがひどくなってるらしくて」
「ふうん。大変だな」
夫は刺身に箸を伸ばしながら、テレビの画面を見ている。それ以上、何かを聞いてくる様子はない。私は味噌汁を一口飲んだ。出汁はちゃんと出ているのに、なんだか味が薄く感じた。
「お前も色々苦労したもんな」
突然、夫がそう言った。私は箸を止めた。夫はこちらを見ずに、刺身を醤油につけている。
「別に、苦労ってほどでもないよ」
「そうか」
会話はそれで終わった。テレビでは、どこかの観光地の紅葉が見頃だと言っている。私はそれを見ながら、母が最後に紅葉を見に行ったのはいつだったろう、と考えた。たぶん、父が生きていた頃だから、もう十年以上前だ。父が亡くなってから、母は一人で出かけることが減った。私が誘っても「寒いから」とか「人が多いから」と言って断るようになった。あれは、もう認知症の始まりだったのかもしれない。
食後、夫はソファでうたた寝を始めた。私は食器を洗いながら、隣の奥さんの顔を思い出していた。彼女はきっと、これから色々なことを一人で決めていかなければならない。兄は頼りにならないと言っていた。夫はどうなんだろう。話を聞いてはくれるけれど、積極的に何かをしてくれるわけではない。でも、それでいいのかもしれない。私も母のことを全部、夫に話したわけではないから。
洗い物を終えて、スマホを見ると、妹から新しいメッセージが来ていた。
「今週末、そっち行けるかも。お母さんのとこ、一緒に行かない?」
私はしばらく画面を見つめてから、「わかった。土曜日なら空いてる」と返した。送信してから、何か言い足りない気がしたけれど、そのまま画面を閉じた。
居間に行くと、夫が小さくいびきをかいていた。テレビはまだついている。私はリモコンを手に取って、音量を少し下げた。窓の外では、隣の家の明かりがまだついていた。彼女は今頃、何をしているんだろう。家族に今日のことを話しただろうか。それとも、一人でスマホを眺めているだろうか。
私はソファに座って、明日のパートの準備をしようと思った。でも、体が動かなくて、しばらくテレビの画面をぼんやりと見ていた。画面の中では、知らない街のきれいな紅葉が映っている。母はもう、ああいう景色を見ても何も感じないのかもしれない。そう思うと、また胸のあたりが冷たくなった。
夫のいびきが少し大きくなった。私は立ち上がって、洗面所に行き、歯を磨いた。鏡の中の自分の顔は、思ったより疲れて見えた。明日は仕事だ。早く寝よう。そう思いながら、布団に入っても、しばらく眠れそうになかった。