義母の「気にしないで」に疲れ果てた日
夕方の特売で買ったキャベツが、冷蔵庫の奥でしなびかけている。目には入っているのに、手が動かない。ただ座って、スマホの画面をぼんやり眺めていた。義母からLINEが来ている。未読のまま、三十分が過ぎていた。
「今日は少し頭が痛いから、買い物に行けなかったの」
たったそれだけの文面なのに、胸の奥が冷たくなる。まただ、と思う。頭が痛い、腰が痛い、めまいがする。病院に行っても特に悪いところは見つからないと言われた、と義母はいつも言う。でも、私が仕事から帰って連絡すると、決まって調子が悪い。
五十二歳。パートの事務仕事を週四日。夫は五十五歳で、中小企業の課長。息子は大学三年生で、一人暮らしをしている。娘は高校二年生。普通の家族だと思う。普通であることが、こんなに重いとは思わなかった。
最初は、私も優しかった。いや、優しかったというより、そうするのが当たり前だと思っていた。夫の母が一人暮らしで、体調を崩しがちなら、嫁である自分が様子を見に行くのは自然なことだと。結婚して二十五年、ずっとそうしてきた。
義母の家は、うちから電車で二駅。近すぎず遠すぎず、ちょうどいい距離だと昔は思っていた。今は、その二駅が果てしなく感じる日がある。
「お義母さん、大丈夫ですか。何か買って行きましょうか」
そう返信すると、すぐに既読がついた。
「大丈夫。気にしないで。あなたも忙しいでしょう」
この「気にしないで」が、私を一番疲れさせる。本当に気にしないでほしいなら、最初から連絡してこなければいい。でも、そんなことは言えない。言ったら最後、私は「冷たい嫁」になる。
夕飯の支度をしなければいけない時間だった。冷蔵庫を開けて、しなびたキャベツを取り出す。豚肉と炒めよう。味噌汁は豆腐とわかめ。娘は塾で遅くなるから、夫と二人分。夫は今日も残業だと言っていた。
フライパンに油をひいて、豚肉を炒める。油の跳ねる音が、やけに大きく聞こえる。スマホがまた震えた。義母からだ。
「やっぱり明日、病院に連れて行ってもらえると助かるんだけど」
私は菜箸を置いて、深呼吸をした。明日は、パートのシフトが入っている。月末で、経理の補助が立て込んでいる時期だ。簡単には休めない。
「明日は仕事なので、明後日なら大丈夫ですが」
そう送ると、今度は既読がつくのが遅かった。十分ほどしてから、短い返事が来た。
「わかった。悪いわね」
悪いわね、という言葉に、とげがあるように感じるのは、私の心が荒んでいるからだろうか。それとも、本当にとげがあるのだろうか。もう長いこと、その区別がつかなくなっている。
夕食の準備を終えて、洗濯機を回す。リビングのソファに座ると、腰が重く感じた。テレビをつけると、ちょうどニュースが終わって天気予報に切り替わるところだった。明日は午後から雨らしい。
夫が帰ってきたのは、九時を過ぎていた。
「ただいま。飯、まだある?」
「あるよ。温めるね」
「悪いな」
夫はネクタイを緩めながら、洗面所に向かった。私は冷めた豚肉とキャベツの炒め物をレンジで温め直す。味噌汁も、もう一度火にかける。
食卓に向かい合って座る夫を見ながら、義母のことを話すべきか迷った。でも、夫は疲れた顔でスマホを眺めながら食べている。話したところで、「そうか、悪いな」で終わるのが目に見えている。夫は悪くない。悪くないけれど、何もしてくれない。
「母さんから連絡あった?」
夫が突然、顔を上げて聞いた。
「うん。明日、病院に連れて行ってほしいって」
「明日? お前、仕事だろ」
「そう。だから明後日ならって言った」
「そっか。助かるよ」
助かるよ、と言われても、何が助かるのかよくわからない。夫の母なのに、夫が行けばいいのに、と思う。でも、夫は平日に休める立場じゃない。それもわかっている。わかっているから、何も言えない。
「お父さん、たまには顔見せに行ってあげたら」
そう言いかけて、やめた。言ったところで、夫は困った顔をするだけだ。夫は母親のことを大切に思っている。でも、面倒なことからは距離を置いている。その距離を埋めているのが、いつも私だった。
翌日、仕事を終えて家に帰ると、義母からまたLINEが来ていた。
「今日はやっぱり自分で病院に行ってきたわ。心配かけてごめんね」
私はスマホを握ったまま、しばらく動けなかった。自分で行けたなら、最初からそうしてほしい。でも、そう思う自分が嫌だった。義母は七十を過ぎて、一人で暮らしている。心細いのは理解できる。でも、私の生活にも余裕がない。
「お疲れさまでした。大事がなくてよかったです」
そう返信して、スマホをテーブルに置いた。娘が学校から帰ってきて、冷蔵庫を開けている。
「お母さん、今日、何時にご飯?」
「七時くらいかな。お父さんは遅いって」
「ふーん。あ、ねえ、来月の文化祭、来る?」
「行くよ。お父さんも、たぶん」
「別に無理しなくていいけど」
娘はそう言って、自分の部屋に上がっていった。無理しなくていい、という言葉が、義母の「気にしないで」と重なって聞こえた。同じ言葉なのに、娘の言葉は軽くて、義母の言葉は重い。それは、私の受け取り方の問題なのかもしれない。
夜、お風呂に入りながら、明後日は義母の家に行くことを考えた。何を買って行こうか。果物がいいだろうか。それとも、おかずを作って持って行こうか。そういうことを考えている自分が、情けなくもあり、仕方なくもあり。
お風呂から上がると、夫がリビングで缶ビールを飲んでいた。
「母さん、今日は自分で病院行ったんだって」
「そうなのか。よかったじゃないか」
「うん。でも、明後日は行くつもり」
「ああ、頼むわ」
夫はテレビの野球中継を見ながら、そう言った。私は髪を拭きながら、冷蔵庫から麦茶を出した。グラスに注いで、一気に飲む。冷たい液体が喉を通っていく感覚だけが、やけにはっきりしていた。
明後日、義母の家に行くと、義母は元気そうにしていた。
「あら、来てくれたの。悪いわねえ」
「お義母さん、調子はどうですか」
「もう大丈夫よ。年のせいね、あちこち痛くて」
義母はそう言いながら、私が持って行った果物を受け取った。部屋の中は、いつも通りきれいに片付いていた。一人で暮らしているのに、きちんと掃除が行き届いている。それが逆に、義母の孤独を際立たせているように感じた。
「お茶でも飲んでいきなさい」
「ありがとうございます。でも、今日はこれから娘の塾の送りがあるので」
「あら、そう。大変ねえ」
義母は少し残念そうな顔をした。でも、引き止めはしなかった。それが救いだった。
「今度は、もっとゆっくり来てね」
「はい。そうします」
そう言って義母の家を出た。駅までの道を歩きながら、空を見上げる。曇っていた。雨はまだ降っていなかった。
電車に乗って、窓の外を眺める。見慣れた景色が流れていく。私はつり革につかまりながら、明日の仕事のことを考えていた。月末の締め作業が残っている。家に帰ったら、夕飯の支度をして、洗濯物を畳んで、娘の塾の送りをして。
やることは、いつもたくさんある。でも、今日は少しだけ、心が軽かった。義母が元気そうだったから、ではない。義母の家を出るとき、義母が「ありがとう」と言ったからでもない。
ただ、今日は、自分のペースで帰れると思ったからだ。誰かのために何かをするのではなく、自分の家に帰る。それだけのことが、こんなに貴重に感じる日がある。
家に着くと、娘がリビングでスマホをいじっていた。
「おかえり。おばあちゃん、どうだった?」
「元気だったよ。心配してたよ、って言ってた」
「ふーん」
娘は興味なさそうに言って、またスマホに目を落とした。私はキッチンに立ち、冷蔵庫を開ける。今日は何を作ろうか。考えるのが面倒だった。でも、作らなければいけない。
冷凍庫から鶏肉を取り出して、解凍する。玉ねぎを切る。包丁の音が、静かなキッチンに響く。スマホが震えた。義母からだ。
「今日は来てくれてありがとう。今度、一緒にご飯でも食べましょう」
私は包丁を置いて、返信を打つ。
「こちらこそ、ありがとうございます。ぜひ」
送信して、また玉ねぎを切り始める。目にしみる。玉ねぎのせいだ。そう思うことにした。