夫のシンクに置かれていた法律事務所からの封筒
あの日、台所のシンクに置かれた白い封筒を見つけたのは、たまたまだった。宛名は夫の名前で、裏には都内の法律事務所の印が押してあった。手に取った瞬間、指先が冷たくなったのを覚えている。中を見るつもりはなかった。でも、封を開けずに戻すこともできなかった。キッチンタイマーが鳴るまで、私はずっとその封筒を握ったまま立っていた。
あれから三ヶ月が経つ。夫はまだ何も言わない。私は毎日、朝六時に起きて弁当を作り、七時半に駅まで車で送る。夕方、スーパーで買い物をして、夜は録画したドラマを二人で観る。表面上は何も変わっていない。でも、私の中でだけ、すべてが少しずつ音を立てて崩れている。
私は五十二歳。結婚して二十六年になる。夫は五十五歳で、都内の電機メーカーに勤めている。子供は二人。上の娘は結婚して千葉に住んでいて、下の息子は都内の大学を出てから大阪で働いている。家は郊外の建売住宅で、ローンはあと七年残っている。去年、夫の両親が相次いで入院して、義母の介護認定の手続きを手伝った。そのときはまだ、夫婦で協力して乗り越えている気がしていた。
封筒を見つけたのは、義母の退院が決まった直後だった。あの日、夫は会社の飲み会で遅くなると言っていた。私は一人で夕飯を済ませ、洗い物をしようと台所に立った。シンクの隅に、夫が仕事から持ち帰った書類の束と一緒に、その封筒が置かれていた。法律事務所の名前は見覚えがなかった。夫の会社の顧問弁護士とは違う。私は封筒を裏返し、差出人の住所を確認した。渋谷区。夫の通勤経路からは外れている。
その夜、夫が帰宅したのは十一時を過ぎていた。私はリビングのソファで待っていた。夫は「まだ起きてたのか」と言って、ネクタイを緩めながら冷蔵庫から麦茶を出した。私は何も聞けなかった。聞いたら、何かが終わる気がした。夫はいつも通り、風呂に入り、歯を磨き、寝室に行った。私は台所に戻り、封筒を元の場所に戻した。それ以来、封筒は見ていない。夫はどこかに隠したのだろう。
それから私は、夫の行動を観察するようになった。帰宅時間、スマホの扱い、洗濯物の匂い。自分が嫌になる。でも、やめられなかった。夫は相変わらず優しかった。休みの日には一緒に買い物に行き、義母の見舞いにも付き合ってくれた。先月、私が風邪を引いたときは、仕事を早退して薬を買ってきてくれた。そういう普通のことが、かえって私を苦しめた。優しさの裏に、何か隠しているのではないかと疑ってしまう。
一度だけ、思い切って聞こうとしたことがある。夜、二人でテレビを観ていたとき、CMの間に「ねえ、最近、何か悩んでることない?」と声をかけた。夫はリモコンを置いて、少し考えてから「別にないけど」と答えた。その言い方が、あまりに自然で、私はそれ以上踏み込めなかった。夫は本当に何も知らないのかもしれない。いや、知らないふりをしているのかもしれない。どちらにしても、私には確かめる勇気がなかった。
娘には一度だけ、電話で「お父さん、最近どう?」と聞いたことがある。娘は「普通じゃない? この前、お母さんの誕生日プレゼント何にするか相談されたよ」と言った。それを聞いて、胸が締め付けられた。夫は私の誕生日に、小さなネックレスをくれた。私は笑って受け取った。でも、その夜、鏡の前でネックレスを外しながら、涙が止まらなかった。何が悲しいのか、自分でもうまく説明できなかった。
息子は大阪で忙しくしていて、ほとんど連絡を取らない。たまにLINEでスタンプが送られてくるだけだ。義母は退院後、近所のデイサービスに通い始めた。週に二回、私が送り迎えをしている。義母はいつも「ありがとうね」と言う。その言葉を聞くたびに、私は夫の封筒のことを思い出す。義母は何も知らない。知らなくていい。でも、私だけが知っているこの重さを、誰にも話せないまま抱えている。
先週、夫が珍しく早く帰ってきた。夕飯の支度をしていると、夫が台所に立って「手伝うよ」と言った。私は「大丈夫」と断った。夫はしばらく黙って私の背中を見ていた。それから「最近、元気ないけど、大丈夫か」と聞いてきた。私は振り返らずに「別に普通だよ」と答えた。夫は「そうか」と言って、リビングに戻った。その夜、二人で食卓を囲みながら、私は夫の顔をまっすぐ見られなかった。
あの封筒が何だったのか、今もわからない。離婚の準備かもしれない。遺言書の相談かもしれない。あるいは、私の知らない借金や、夫の実家の相続の話かもしれない。どれにしても、夫が私に話していないことだけは確かだ。私は毎日、普通の顔をして過ごしている。でも、心のどこかでずっと、夫が私に隠しているものの正体を恐れている。知りたい気持ちと、知りたくない気持ちが、毎日せめぎ合っている。
今夜も、夫はまだ帰らない。私は台所に立ち、シンクを見る。あの封筒はもうない。でも、あの日の感触だけが、指先に残っている。私は冷蔵庫を開け、夕飯の材料を取り出す。包丁を握る手が、少し震えている。それでも、私は夕飯を作る。夫が帰ってきたら、いつも通り「おかえり」と言う。それしかできない。それしか、私にはできない。