冷蔵庫が義母のタッパーで埋め尽くされていた
冷蔵庫の野菜室を開けた瞬間、中が知らないタッパーだらけになっていて、手が止まった。うちのじゃない。うちは白い無印のを揃えてる。なのに、半透明の安いやつが三段全部にぎっしり詰まってる。賞味期限のシールも貼ってない。中身は煮物らしい。色が濃い。義母の味付けだ。
「あ、それね、昨日作ったの。冷凍しとけば一週間はもつから」
後ろから声がして振り向くと、義母が台所の入り口に立っていた。エプロンをつけて、手に菜箸を持っている。うちの菜箸だ。
「お義母さん、これ全部ですか」
「そうよ。あんたたち、共働きでしょ。少しは楽しないと。野菜も高いし、作り置きがあれば便利かなと思って」
にこにこしている。悪気はない。たぶん、本当にない。でも私は、自分の冷蔵庫が自分のものじゃなくなったような気がして、うまく返事ができなかった。
義母がうちに来るようになったのは、三年前に義父が亡くなってからだ。最初は月に一度、仏壇の話や保険の書類のことで夫に会いに来るくらいだった。それがいつの間にか週に一度になり、今では週に三回は来ている。合鍵を持っているから、私がいない日中に上がり込んで、掃除をして、洗濯をして、夕飯の支度までしていく。帰宅すると、玄関に義母のサンダルが揃えてあって、台所から出汁の匂いがする。最初はありがたいと思った。正直、助かっていた。私はパートから帰ってきて、そのまま夕飯を作るのがしんどい日もあったから。
でも、半年を過ぎたあたりから、違和感が募っていった。下着の引き出しが整理されている。洗濯物の畳み方が違う。夫のワイシャツがハンガーごと並べ替えてある。私の化粧水のボトルが、使ってない洗面台の奥の棚に移動されている。文句を言うのはおかしい気がして、何も言えなかった。夫に相談しても、「母さんはあれで暇なんだよ。気にすんな」で終わる。
その日、私は冷蔵庫の前でしばらく立ち尽くしてから、とりあえず一番上の段のタッパーを二つ取り出した。夕飯に使おうと思った。文句を言うより、食べて「おいしかったです」と言う方が楽だ。そうやって、ずっと楽な方を選んできた。
リビングに戻ると、義母がテレビを見ながらお茶を飲んでいた。私の座る位置に座っている。ソファの左端。私がいつも座る場所だ。何か言おうか迷ったけど、黙って右側に座った。テレビでは旅番組をやっていて、義母が「ここ、昔お父さんと行ったのよ」と話し始めた。私は相槌を打ちながら、スマホで明日のシフトを確認した。
「ねえ、ちょっと聞いてる?」
「あ、はい。聞いてます。どこでしたっけ」
「だから、城崎。お父さんと結婚する前に行ったの」
「いいですね」
「あんたたちも行ってみたら? 子どもが小さいうちは無理か」
うちの娘は中学生で、息子は小学五年生。もう小さくはない。義母の中では、うちの子どもたちはずっと「小さい」ままなんだと思う。それも仕方ないのかもしれない。会う頻度は増えても、義母がうちの家族の時間を共有しているわけじゃないから。
夕方、子どもたちが帰ってきて、義母は「じゃあ、そろそろ帰るわね」と立ち上がった。玄関で靴を履きながら、「明日は何時に来ようかしら」と独り言のように言う。
「あの、明日は大丈夫です。私、休みなんで」
「あら、そう。じゃあ明後日は?」
「明後日も、たぶん大丈夫です」
義母はちょっと首をかしげて、「でも、パートでしょ? 夕方までいないじゃない」と言った。
「いえ、明後日は午前中だけなんで」
「そう。じゃあ、来週また来るわ」
来週。私は「はい」とだけ言って、ドアを閉めた。閉めた瞬間、ほっとした。でも、来週のことを考えると、また胃のあたりが重くなった。
夜、夫が帰ってきて、冷蔵庫のタッパーを見て「お、母さんが作ってくれたのか」と言った。私は「うん」とだけ答えて、煮物を温めた。夫は「うまい」と言って食べていた。私は味が濃いなと思いながら、水を飲んだ。
「なあ、母さん、最近ちょっと来すぎじゃないか?」
夫が突然そう言った。箸が止まった。
「いや、別にいいけど。お前、疲ないかなと思って」
「……正直、ちょっと疲れる」
言ってしまった。夫はしばらく黙って、それから「そうか」とだけ言った。
「でも、母さん、一人だし。あれで張り合いになってるんだと思う」
「わかってる。わかってるけど」
「合鍵、返してもらうか?」
「そこまでじゃない。そこまでじゃないけど」
夫はそれ以上何も言わなかった。私も言わなかった。煮物の汁が冷めていくのが見えた。
次の週、義母は火曜日に来た。私がパートから帰ると、また台所に立っていた。今度はカレーを作っていた。うちの鍋で。匂いは悪くない。でも、私は朝、冷蔵庫に豚肉を解凍しておいたのに、それがどこかに消えていた。義母が何かに使ったんだろう。探す気にもならなかった。
「おかえり。今日はカレーよ。あんた、疲れてるでしょ」
「ありがとうございます。でも、今日は自分で作ろうと思ってたんです」
声が少し固くなった。義母は菜箸を置いて、私の顔を見た。
「あら、そうだったの。ごめんね。でも、もうできちゃったから」
「いえ、いただきます」
私はそう言って、着替えに二階へ上がった。部屋で少し座って、深呼吸をした。下から義母が「お味噌汁も作ったわよ」と声をかけてくる。返事をしなかったら、もう一度言うだろう。わかっているから、「はあい」とだけ言った。
夕飯のとき、義母は「最近、血圧が高くてね」と自分の話を始めた。夫は「病院行ったの?」と聞いている。私はカレーを食べながら、子どもたちの宿題を見ていた。息子が「ばあば、また来るの?」と小声で言った。私は「わかんない」と小声で返した。
義母はその日、泊まっていくと言い出した。急に、ではない。前から少しずつ「遅くなると電車が心配」と言うようになっていた。うちから義母の家までは電車で四十分。たしかに遅い時間は大変だろう。でも、まだ七時だ。
「今日は泊まってもいい?」
夫が私を見た。私は何も言えなかった。夫は「いいよ、布団出すから」と答えた。
布団は私が敷いた。客間はないから、リビングの隣の和室に。義母は「ありがとう」と言って、自分の荷物から化�粧水を出していた。うちの洗面台に置いてある私の化粧水とは違う匂いがした。
夜中、トイレに起きたら、台所の電気がついていた。義母が冷蔵庫を開けて、何かを見ている。私は声をかけずに、そのまま二階へ戻った。心臓がどきどきしていた。自分の家なのに、泥棒を見つけたみたいな気持ちになる。
翌朝、義母は六時には起きていて、洗濯機を回していた。うちの洗濯機。私は寝不足のまま起きて、「おはようございます」と言った。義母は「おはよう。朝ごはん、パンでいい?」と聞いてきた。うちのトースターで、うちのパンを焼くつもりなんだろう。
「あの、お義母さん」
「なあに」
「洗濯、自分でやりますから」
義母は洗濯機のボタンを押しながら、「いいのよ、これくらい」と言った。
「いえ、自分の家のことなので」
声が震えた。義母の手が止まった。洗濯機が回り始める音だけが響いた。
「……あんた、私に来てほしくないの?」
義母が振り向かずに言った。私は答えられなかった。来てほしくないわけじゃない。来てほしくないわけじゃないけど、自分の家を自分の手で回したいだけだ。でも、そんなこと、どう言えばいいのかわからない。
「ごめんなさい。そういう意味じゃなくて」
「いいのよ。年寄りは邪魔なのよね」
「違います。違いますけど、私にもやり方があるので」
義母は黙って洗濯機の前から離れた。それから、自分の荷物をまとめ始めた。朝ごはんも食べずに帰ると言う。夫が起きてきて「どうしたの?」と聞いたが、義母は「なんでもないわ。ちょっと帰る」とだけ言って、玄関を出ていった。
私はリビングに座って、洗濯機が止まるのを待った。夫は何か言いたそうだったが、結局「送ってくる」とだけ言って、車のキーを持って出て行った。
子どもたちが起きてきて、「ばあばは?」と聞いた。私は「帰ったよ」と答えた。息子が「やった」と小さく言った。私は何も言わなかった。
昼過ぎ、夫からLINEが来た。「母さん、泣いてた。お前の言い方がきつかったって」
私は既読をつけて、返信しなかった。きつかったかもしれない。でも、あのままだったら、私は自分の家で息ができなくなってた。
夕方、義母から電話があった。出るのに迷ったけど、出た。
「もしもし、さっきはごめんね」
義母の声は小さかった。
「いえ、こちらこそ、言い方が悪くて」
「あのね、合鍵、返そうと思って」
「……そうですか」
「でも、たまには行ってもいいかしら。月に一度とか」
「もちろんです。来てください」
電話を切ったあと、リビングの窓を開けた。外はまだ明るくて、近所の子どもが走っていく声がした。冷蔵庫には義母のタッパーがまだ残っている。たぶん、最後の一個は今日の夕飯に出そうと思う。味は濃いけど、慣れれば食べられないこともない。