家に上がり込んでくる義妹への本音が言えない
鍵を回す音で、心臓が縮むようだった。金曜日の夜八時。冷凍食品の袋を下げて玄関を開けると、見慣れない黒いパンプスが揃えてあった。踵の外側が擦り減っている。ああ、また来てる、と思った瞬間、リビングから義妹の声がした。
「おかえりなさい。遅かったね」
悪意はない。ただの挨拶だ。でも、その「遅かったね」に、私はいつも何かを含まれている気がしてしまう。パートのシフトが長引いただけだと言い訳しながら、買ってきたものを冷蔵庫に押し込んだ。義妹の美穂は、ソファに座ってテレビを見ていた。夫はまだ帰っていない。美穂は私より七歳下で、離婚してから近所のアパートに一人で住んでいる。来るのは自由だけど、来るたびにうちの冷蔵庫を開け、お風呂を借り、時々は夕飯を食べて帰る。今日もそうなのだろう。
「今日さ、仕事で嫌なことがあって」
美穂が話し始めた。私は「うん」とだけ言って、手を洗った。話の内容は、職場の派遣の女が自分にだけ挨拶をしないとか、上司が理不尽だとか、そういういつものやつだ。私はエプロンを付けて、冷凍のほうれん草をレンジに入れた。美穂の声を背中で聞きながら、今日は早く帰ってほしいと思っていた。明日は朝から町内会の掃除がある。本当は出たくないけど、班長が回ってきているから仕方ない。
「ねえ、聞いてる?」
「聞いてるよ」
「でさ、その女、私がトイレに行ってる間に私の悪口言ってたらしくて」
私は相槌を打ちながら、味噌汁の具をどうするか考えていた。豆腐が半丁残っている。油揚げも一枚。冷蔵庫を開けると、美穂が昼に食べたと思われるヨーグルトの空容器が、ラップもされずに一段目に置いてあった。私はそれを黙って捨てた。
夫の健一が帰ってきたのは九時を過ぎてからだった。美穂は「お兄ちゃん、遅いじゃん」と明るく言った。健一は「ああ、会議が長引いて」とだけ言って、ネクタイを緩めた。私が夕飯の準備をしていると、健一が台所に来て、小声で言った。
「美穂、今日泊まるって」
私は菜箸を置いた。
「急に?」
「なんか、アパートの隣の部屋がうるさくて眠れないらしい。明日は休みだし、いいだろ」
いいだろ、と夫は言う。でも、私には「いい」と思えない。美穂が泊まると、必ず朝までリビングでテレビをつけている。私は眠りが浅いから、夜中にトイレに起きたとき、リビングの明かりが漏れていると、もう眠れなくなる。それに、日曜の朝はゆっくりコーヒーを飲みたいのに、美穂がいると、なんとなく気を遣ってしまう。
「布団、出しとくね」
私はそう言って、押し入れから客用の布団を出した。美穂は「ありがとう」と言いながら、スマホを見ていた。その無防備な態度が、時々、無性に腹立たしい。でも、それを口に出せない自分が一番嫌だった。
夕飯は、鮭の塩焼きとほうれん草のお浸し、豆腐と油揚げの味噌汁。美穂は「美味しい」と言って食べた。健一はテレビのニュースを見ながら、黙々と箸を動かしていた。私は、美穂が使った箸置きの位置が少しずれているのが気になった。直したいけど、直したら嫌味になる。そういう小さなことが、積もっていく。
「ねえ、お義姉さん」
美穂が味噌汁を飲みながら言った。
「私、来月、誕生日じゃん。何か欲しいものある? って、逆に聞くのも変だけど、お義姉さん、いつもお世話になってるから、何かお礼したいなって」
私は箸を止めた。お世話になってる、という自覚はあるんだ、と思った。でも、お礼が欲しいわけじゃない。物が欲しいわけでもない。ただ、もう少しだけ、距離を置いてほしい。そう言えたら、どんなに楽だろう。
「気にしなくていいよ」
私は笑って答えた。美穂は「えー、でも」と言いながら、嬉しそうに笑った。健一は何も言わずに、味噌汁をおかわりした。
夜、布団を敷いたリビングで、美穂はスマホをいじっていた。私は歯を磨きながら、明日の掃除のことを考えていた。軍手はあったか。ゴミ袋は、班でまとめて買ったやつが物置にあるはず。そういうことを考えていないと、心がざわざわした。
寝室に入ると、健一がベッドに仰向けになっていた。天井を見ている。私は隣に横になり、電気を消した。暗闇の中で、健一が言った。
「美穂、最近、金に困ってるみたいなんだ」
私は目を開けた。
「そうなの?」
「派遣の仕事、時給が下がったらしい。家賃も払えるか微妙だって」
私は何も言わなかった。言いたいことはたくさんあった。でも、健一が妹を心配する気持ちもわかる。わかるから、余計に苦しかった。
「うちに住まわせるのは、さすがに無理だよな」
健一が言った。その言い方には、少しだけ迷いがあった。私は、暗い天井を見ながら、小さく「うん」と言った。それ以上、何も言えなかった。
翌朝、目が覚めると、リビングからテレビの音がしていた。美穂はもう起きていて、ソファで朝の情報番組を見ていた。私は洗面所に行き、顔を洗った。鏡の中の自分は、少し疲れていた。
「おはよう」
美穂が言った。
「おはよう」
私は答えた。朝の光の中で見る美穂は、昨夜よりずっと幼く見えた。この人も、一人で生きるのが不安なんだろう。でも、私の家は、美穂の避難所じゃない。そう思う自分は、冷たいのだろうか。
掃除に行く準備をしながら、私は軍手を探した。物置の奥に、去年使った軍手があった。少し汚れていたけど、使える。美穂は「私も行こうか?」と言った。私は「いいよ、町内のやつだから」と断った。美穂は「そっか」と言って、またテレビを見た。
外に出ると、朝の空気が冷たかった。集合場所の公園には、近所の人たちが集まっていた。私は班長として、ゴミ袋を配った。みんな、当たり前のように受け取って、散らばっていく。この時間は、嫌いじゃない。誰も私に、義妹のことを聞かない。ただ、落ち葉を集めて、ゴミを拾う。それだけの時間。
掃除が終わって家に戻ると、美穂はもう帰っていた。リビングには、畳まれた布団と、テーブルの上に置かれた小さなメモがあった。
「お世話になりました。また来ます」
私はメモを手に取って、しばらく見ていた。また来ます。その言葉が、重かった。でも、来るなとは言えない。言えないまま、私はメモをゴミ箱に捨てた。
昼過ぎ、健一が起きてきた。リビングでコーヒーを飲みながら、健一は言った。
「美穂、帰ったのか」
「うん、さっき」
「そっか」
健一はそれだけ言って、新聞を広げた。私は洗濯機を回しながら、昨日の夕飯の食器を片付けた。美穂が使ったコップを洗いながら、私は、この先もずっと、こういう週末が続くのかもしれないと思った。でも、それを変える勇気もない。ただ、鍵を回す音に、心臓が縮む。それだけは、変わらない。