義母に返してもらった合鍵と、夫との距離
リビングのソファで、義母がうちの子の髪をとかしながら言った。「この子、あんたに似て猫っ毛だねえ。まとまらなくて可哀想に」。手元には、私が昨日片付けたばかりのヘアブラシがあった。自分の家なのに、私は台所で麦茶を注ぎながら、何も言えずにいた。
結婚して十五年。四十二歳。パートで週四日、スーパーのレジを打っている。夫の実家は電車で二駅の距離にあり、義母は週に二、三回、突然うちに来る。インターホンも鳴らさず、合鍵で玄関を開けて。
最初は新婚の頃、鍵を渡したのが間違いだった。当時は共働きで、宅配便を受け取ってもらえると思ったのだ。でも今は、その鍵が私の生活を縛っている。
義母は来るたびに、冷蔵庫を開け、洗濯機を覗き、郵便物をめくる。「あら、また通販?無駄遣いね」「この洗剤、高いやつに変えたの?」。悪気はないのだろう。ただ、息子の家は自分の家だと思っている。そして私は、その家に住まわせてもらっている厄介者だと思われている。
娘が小学校に上がった頃、一度だけ夫に言ったことがある。「お義母さん、来る前に連絡してほしいんだけど」。夫は新聞から目を離さず、「別にいいだろ、母さんなんだから」とだけ答えた。それで終わりだった。
夫は悪い人ではない。真面目に働いて、給料もちゃんと入れてくれる。休みの日は娘と遊んでくれる。ただ、母親のことになると、いつも無関心を装う。いや、本当に無関心なのかもしれない。私が何を感じているか、考えようともしない。
先週の金曜日、仕事から帰ると、玄関に見覚えのないサンダルがあった。義母のものではない。居間に行くと、義母と、近所に住むという義母の友人がお茶を飲んでいた。
「あ、お帰り。この前話した山田さんよ。今日、ちょうど近くまで来たから、ちょっと上がってもらったの」
私は挨拶をして、すぐに着替えに寝室へ行った。ベッドの上に、朝たたんだ洗濯物がそのまま置いてあった。いや、たたみ直されていた。私の下着まで、きっちりと。
居間に戻ると、山田さんが言った。「奥さん、大変ねえ。お義母さんがこんなに気を遣ってくれて。感謝しないとね」。義母は照れたように笑った。私は「はい」とだけ言って、台所でお茶を淹れ直した。手が震えていた。
その夜、夫に話した。声を荒げずに、事実だけを伝えた。
「今日、お義母さんが知らない人を家に上げてた。私の下着も触られてる。これ、普通のことなのかな」
夫はしばらく黙って、それから言った。「母さんも寂しいんだよ。父さん亡くなってから、話し相手が欲しいんだろう」
「でも、ここは私の家でもあるんだよ」
「わかってるよ。でも、いちいち目くじら立てるなよ。母さんは悪気ないんだから」
悪気がない。その言葉が、何年も私の口を塞いできた。悪気がないから、何をしても許されるのだろうか。悪気がないから、私は我慢するしかないのだろうか。
土曜日の朝、娘が熱を出した。三十八度五分。私はパートを休む連絡を入れ、小児科に連れて行く準備をした。そこへ義母から電話がかかってきた。
「今日、そっちに行こうと思ってたんだけど、何かいるものある?」
「いえ、大丈夫です。娘が熱を出したので、病院に行きますから」
「あら、大変。じゃあ、私が家にいてあげるわよ。あんた一人で病院行きなさい」
「いえ、大丈夫です。二人で行きますから」
「何言ってるの。熱のある子を連れ回しちゃダメよ。私がついててあげるから」
電話を切った後、私はしばらく玄関に座り込んでいた。娘は布団で寝ている。病院は歩いて十分。でも、義母が来るなら、家にいてもらった方が楽なのかもしれない。いや、違う。私はただ、義母に家を任せたくなかった。
結局、義母が来る前に娘を連れて家を出た。待合室で順番を待ちながら、娘が言った。「おばあちゃん、来るの?」。「来ないよ」と答えると、娘はほっとした顔をした。小学三年生の娘でさえ、義母の来訪を負担に感じているのだ。
診察が終わり、薬をもらって家に帰ると、玄関に義母の靴があった。鍵を開けて入ると、台所から声がした。
「あら、おかえり。遅かったわね。お昼、作っておいたわよ。冷蔵庫に卵がなかったから、買ってきておいたわ。あ、お金は置いといてね」
私は「ありがとうございます」と言って、娘を布団に寝かせた。台所に行くと、シンクに洗い物がたまっていた。今朝、時間がなくて放置した食器だ。義母はそれを全部洗い、食器棚にしまっていた。私のやり方とは違う場所に。
「あの、食器、ありがとうございました。でも、場所が違うので、今度からそのままで大丈夫です」
義母は一瞬、手を止めた。「あら、私、いつもここにしまってるわよ。あんた、最近変えたの?」
「いえ、前からここじゃないんですけど」
「そう?まあ、細かいことはいいじゃない。それより、卵代、三百二十円ね」
私は財布から小銭を出して渡した。義母はそれをポケットにしまい、また台所を拭き始めた。私は何も言えず、娘の様子を見に行った。
夜、夫が帰ってきた。義母はもう帰っていた。夕食の準備をしながら、私は今日のことを話した。卵代のこと、食器の場所のこと、娘が義母を嫌がっていること。
夫はビールを飲みながら聞いていた。そして、ため息をついて言った。
「お前さ、母さんのこと、もっと感謝したらどうなんだ。卵だって買ってきてくれたんだろ。食器だって洗ってくれたんだろ。なんでそう悪く取るかな」
「感謝してないわけじゃない。でも、私の家のことだから、勝手にやらないでほしいだけ」
「俺の母さんだぞ。お前の家でも、俺の家でもあるんだよ。母さんは家族だろ」
「家族でも、勝手に人の下着を触ったり、知らない人を上げたりするのはおかしいよ」
夫は黙った。しばらくして、「もういいよ。疲れてるんだ」と言って、風呂に行った。
私は台所に立ち、冷蔵庫を開けた。義母が買ってきた卵が、一番上の段に置いてあった。三百二十円。その卵で何を作ろうかと考えたが、何も浮かばなかった。
翌日、娘の熱は下がった。私はパートに出た。レジに立ちながら、ぼんやりと考えた。このまま何年、この生活が続くのだろう。義母が元気な限り、ずっと。夫が何も言わない限り、ずっと。
帰りにスーパーで買い物をして、家に着くと、また義母の靴があった。今日は来ないと思っていたのに。玄関を開けると、義母が洗面所から出てきた。手に、私の化粧水のボトルを持っていた。
「あら、おかえり。これ、いい匂いね。どこの?私も欲しいわ」
私は靴を脱ぎながら、静かに言った。
「お義母さん、ちょっと話があります」
義母は首をかしげた。「何?改まって」
居間に行き、向かい合って座った。私は膝の上で手を組んだ。心臓が早くなっていた。
「あの、合鍵、返してもらえませんか」
義母の顔から笑みが消えた。「どうして?」
「ここは私と夫の家なので、来ていただくのは構わないんですけど、せめて連絡してから来てほしいんです。急に来られると、片付けもしてないし、仕事から帰って疲れてる時もあるし」
義母はしばらく黙っていた。それから、低い声で言った。
「あんた、私に来てほしくないのね」
「そういうわけじゃなくて、ただ、前もって連絡がほしいだけで」
「私が何か悪いことした?掃除もしてあげて、買い物もしてあげて、孫の面倒も見てあげて。なのに、鍵を返せって、追い出すの?」
「追い出してません。ただ、私にも生活があるので」
義母は立ち上がった。「わかったわ。もう来ないから。息子には私から言っておく。あんたにそんなこと言われたって」
「お義母さん、話を聞いてください」
「聞いたわよ。あんたは私が邪魔なんでしょ。最初からそうだと思ってた。息子を取られた時から、ずっと」
義母は玄関に向かい、靴を履いた。私は追いかけた。「鍵、置いていってもらえますか」
義母は振り返り、私をにらんだ。「あんた、そこまで言うの」
私は黙って手を差し出した。義母はバッグから鍵を取り出し、私の手に叩きつけるように置いた。そして、何も言わずに出て行った。
玄関に一人残り、私は鍵を握りしめた。手のひらに鍵の形が食い込んだ。涙は出なかった。ただ、体中の力が抜けて、その場にしゃがみ込んだ。
夜、夫からLINEが来た。「母さんから聞いた。お前、鍵返せって言ったのか」
私は「はい」とだけ返した。既読がついて、しばらくして返事が来た。
「今日は遅くなる」
それだけだった。
娘が学校から帰ってきて、「おばあちゃん、今日来ないの?」と聞いた。「来ないよ」と答えると、娘は「そっか」と言って、ランドセルを置いた。その顔が、少しだけ明るく見えた。
私は夕食の準備をしながら、夫が帰ってきたら何を言われるか考えていた。でも、何を言われても、もう鍵は返さない。返したくない。それは、私が十五年かけてやっと手にした、小さな境界線だった。
夫は結局、その日は深夜に帰ってきた。私は寝たふりをした。夫は何も言わず、隣に寝た。背中越しに、夫のため息が聞こえた。
翌朝、夫はいつも通り出勤した。何も言わなかった。私も何も言わなかった。ただ、玄関の鍵置き場に、義母の合鍵はもうなかった。
それから一週間、義母から連絡はなかった。夫も、義母の話をしなくなった。家の中は静かだった。娘はのびのびと過ごしていた。私は、久しぶりに自分の家で、自分のペースで洗濯物をたたんだ。
でも、心のどこかで、これでよかったのかと考える自分もいた。夫の母親を、家族を、傷つけてしまったのかもしれない。でも、あのままだったら、私が壊れていた。
日曜日、夫が突然言った。「今日、母さんのところに行く。お前も来るか」
私は首を振った。「行かない。娘と留守番してる」
夫は何か言いたそうだったが、結局一人で出かけた。玄関のドアが閉まる音を聞きながら、私は洗濯機を回した。
夕方、夫が帰ってきた。手に、義母が作ったらしい煮物のタッパーを持っていた。
「母さんが、これ、持ってけって」
私は受け取って、冷蔵庫に入れた。「ありがとう」
夫はリビングでテレビをつけた。私は台所で、義母の煮物を小皿に取り分けた。味見をすると、少し濃かった。でも、懐かしい味がした。
「おいしい」と私が言うと、夫は「ああ」とだけ答えた。
それから、また普通の日常が戻った。義母は来なくなった。夫は時々、一人で実家に行く。私は行かない。娘は、たまに「おばあちゃん、元気かな」と言う。私は「元気だよ」と答える。
合鍵は、私の引き出しの奥にしまってある。使うことはない。でも、捨てることもできない。
時々、夫の携帯に義母から電話がかかってくる。夫は「うん、大丈夫。ああ、わかった」と短く答える。私には何も言わない。私も聞かない。
これでよかったのか、まだわからない。でも、少なくとも、私の下着を他人が触ることはなくなった。知らない人が突然、家に上がっていることもなくなった。
ただ、夫との間に、前はなかった距離ができた気がする。薄い壁のようなものが、私たちの間にある。それが時間とともに消えるのか、厚くなるのか、まだわからない。
今夜も、夫はソファでテレビを見ている。私は台所で、明日の弁当の準備をしている。義母の煮物は、あと少しでなくなる。食べ終わったら、タッパーを洗って、夫に返してもらおう。そう思いながら、私は玉ねぎを刻んでいる。