同居する息子の妻に出て行けと言われた
玄関の鍵を開けた瞬間、家の中がやけに静まり返っていることに気づいた。いつもなら夕方のニュースをつけっぱなしにしているはずのリビングから、音がしない。買い物袋を下ろしながら廊下を進むと、台所の隅でテレザがスマホを耳に当てて、声をひそめて話していた。
「……そう、だから早く何とかしないと。私、もう限界なの」
英語だった。テレザはチェコ出身で、ヤンとは大学の交換留学で知り合った。私の耳には、その早口の英語がところどころしか入ってこない。でも「リンダ」「出て行って」「邪魔」という単語だけは、はっきり聞き取れた。
足音を立てないように、そっとリビングへ戻った。心臓が変な音を立てている。買ってきた牛乳を冷蔵庫に入れる手が、少し震えていた。
私がこの家に引っ越してきたのは、三年前の春だった。夫を亡くしてから一人で暮らしていた郊外のマンションを売却し、息子のヤンとテレザが建てた家の一階部分を借りる形で住み始めた。ヤンは「母さんが近くにいると安心だよ」と言ってくれた。テレザも最初は笑顔で「一緒に暮らせて嬉しい」と言ってくれた。あの言葉を、私は信じていた。
最初の一年は、それなりにうまくいっていた。私も気を遣って、食事は別々に作っていたし、洗濯も自分の分だけ。共有スペースの掃除は、私が朝のうちに済ませておくようにしていた。テレザは仕事を持っていて、ヤンも毎日遅くまで働いていたから、家のことは私がやるのが自然だと思っていた。
でも、いつの間にか「手伝ってくれてありがとう」が「やってくれて当然」に変わっていた。
朝、私が台所に立つと、シンクに昨夜の食器がそのまま残っている。テレザは朝食を食べ終わると、自分の皿を流しに置いたまま出かける。最初は「忙しいんだな」と思っていた。でも、休みの日も同じだった。私が洗い物をしていると、テレザはリビングでスマホを見ながら笑っている。
「お義母さん、今日の夕食、何にするんですか?」
ある日、テレザにそう聞かれた。私は自分の分だけ作るつもりだったから、少し戸惑った。
「今日は、その……簡単に済ませようと思って」
「じゃあ、私たちの分もお願いします。ヤンも早く帰るって言ってたので」
断れなかった。断る理由が見つからなかった。それから、夕食を作るのが私の役目になった。買い物も、片付けも、ゴミ出しも。気がつけば、家の中のことはほとんど私がやっていた。
ヤンは気づいていないわけではないと思う。でも、何も言わない。いや、言えないのだろう。テレザは強い人だから。ヤンが何か言えば、その何倍もの言葉が返ってくる。彼は争いを避ける性格で、子どもの頃からそうだった。私が夫と喧嘩をしても、ヤンは自分の部屋にこもって知らないふりをしていた。あの頃と、何も変わっていない。
「お義母さん、これ、洗濯機に入れておいてもらえますか」
テレザが脱いだ服を、洗濯かごに入れずに洗面所の床に置いたまま出かけたことがあった。私はそれを見て、しばらく動けなかった。拾い上げるべきか、そのままにしておくべきか。結局、拾って洗った。でも、心の中に黒いものがたまっていくのを感じた。
お金のこともあった。家のローンはヤンとテレザが払っている。私が払っているのは、光熱費の一部と食費の半分。それなのに、テレザは時々「今月はちょっと厳しくて」と言って、食費を払わないことがあった。私は年金暮らしだ。余裕があるわけではない。でも、それを言うと「じゃあ、外食にすればよかったのに」と返されるのが目に見えていたから、黙っていた。
ある夜、ヤンが仕事から帰ってきて、リビングでテレザと話している声が聞こえた。私は二階の自室にいたが、ドアが少し開いていた。
「お母さん、最近疲れてるみたいだけど、大丈夫かな」
ヤンの声だった。
「疲れてるのはみんな同じでしょ。私だって仕事してるんだから」
テレザの声は、いつもより低くて冷たかった。
「でも、家のこと、ほとんど母さんにやってもらってるだろ」
「は? やってもらってる? 私だって休みの日は掃除してるし、買い物だって行ってる。あなた、何も見てないの?」
「そういう意味じゃなくて……」
「じゃあ、どういう意味? 私が悪いって言いたいの?」
会話はそこで途切れた。ヤンが何か言いかけて、やめたのがわかった。私は布団の中で、目を開けたまま天井を見ていた。
次の日、テレザはいつもより機嫌が良かった。朝、私が台所に立つと、珍しく自分から「コーヒー飲みますか?」と聞いてきた。私は驚いて、でも嬉しかった。やっぱり、たまには話せばわかってくれるのかもしれない。そう思った。
でも、その日の夕方、私はテレザが玄関で電話しているのを聞いてしまった。
「……だから、もう我慢できないの。あの人、いつも家にいて、こっちの生活を全部見てる感じで。ヤンも何も言わないし。私、このままじゃおかしくなりそう」
相手はテレザの母親だろうか。チェコ語と英語が混ざった言葉だった。私は買い物袋を抱えたまま、玄関の内側で立ち尽くした。出て行くことも、戻ることもできなかった。
その夜、私はヤンに話そうと思った。でも、ヤンは夕食のあと、すぐに自室へ行ってしまった。テレザはリビングでテレビを見ていた。私は食器を洗いながら、何度も言葉を頭の中で組み立てた。でも、どれも違う気がした。結局、何も言えなかった。
一週間後、私は友人に電話をした。大学時代からの友人で、今は地方で一人暮らしをしている。彼女は私の話を黙って聞いてくれた。
「……それで、あんたはどうしたいの?」
「わからない。でも、このままじゃ駄目だってことは、わかってる」
「こっちに来なよ。部屋なら空いてる。狭いけど、一人で住むよりは気が楽でしょ」
私は電話を切ったあと、長い時間、窓の外を見ていた。庭の木が風で揺れている。この家を出るということは、ヤンとも距離を置くということだ。孫はいない。ヤンとテレザに子どもはいない。だから、私がいなくなれば、この家は静かになる。テレザが望んでいるのは、たぶんそういうことだ。
翌朝、私はヤンにだけ話した。テレザはまだ寝ていた。
「しばらく、友達のところに行こうと思う」
ヤンは驚いた顔をした。でも、すぐにうつむいた。
「……ごめん、母さん」
「何が?」
「何もできなくて」
私は何も言えなかった。ヤンの手が、テーブルの上で小さく震えていた。この子も、きっと苦しいのだろう。でも、私を守ることはできない。それもわかっていた。
「荷物は、少しずつ送るから。住所はあとで連絡する」
「うん」
それだけだった。ヤンは最後まで、私の目を見なかった。
出発の日、テレザはリビングにいた。私がスーツケースを引いて廊下を歩くと、彼女は一瞬だけ顔を上げた。
「お出かけですか?」
「ええ、しばらく友達のところに」
「そうですか。気をつけて」
それだけだった。怒りも、安堵も、何も感じていないような声だった。私は「ありがとう」と言って、玄関を出た。
外は曇っていた。雨は降っていない。でも、空気が重くて、肌にまとわりつく感じがした。駅までの道を歩きながら、私は何度も振り返りそうになった。でも、振り返らなかった。
電車に乗って、窓の外を見た。見慣れた街が流れていく。この街に来たときは、新しい生活に少し期待していた。家族と近くに住めることが、嬉しかった。でも、今はただ、遠くへ行くことだけを考えている。
友達の家に着くと、彼女は玄関で待っていた。
「よく来たね。お茶でも飲もう」
その言葉に、涙が出そうになった。でも、泣かなかった。泣いたら、何かが壊れてしまいそうだったから。
今、私は友達の家の小さな部屋にいる。段ボールはまだ開けていない。窓から見える景色は、前の家とは全然違う。でも、不思議と落ち着いている。
ヤンからは、一度だけLINEが来た。
「元気にしてる?」
私は「大丈夫」とだけ返した。本当は、大丈夫じゃない。でも、それでいいと思った。
テレザからは、何も来ていない。たぶん、これからも来ないだろう。
私はこれから、どうするんだろう。仕事を探すかもしれない。年金だけでは心もとない。でも、今はまだ、何も考えられない。
ただ、あの家にいたときよりは、息がしやすい。それだけは、確かだ。