相続したマンションの名義を義母に変えてほしいと言われた話

リビングのテーブルに、見慣れない書類が置かれていたのは、去年の九月のことだ。夫が「ちょっと話がある」と言って、向かいに座った。義母も隣にいた。二人の顔が、なんとなく硬いのがわかった。

「これ、実印押してほしいんだけど」

夫が指で押してきた紙には、私が母から相続したマンションの名義を、義母に変更する旨が書かれていた。頭が一瞬、真っ白になった。

「どういうこと?」

声が少し震えたと思う。夫はちらっと義母を見てから、早口で説明を始めた。義母が保証人になっている借金があって、このままだと義母名義の預金が差し押さえられる。資産を移しておく必要がある、と。

「でも、なんで私のマンションなの」

「お前の名義のままだと、相続のときに面倒だろ。今のうちに母さんにしておけば、手続きが楽になる」

夫の言い方は、まるでそれが当然のことのようだった。義母は黙って、テーブルの上の茶碗を両手で包んでいた。

「嫌よ。それは母が私に残してくれたものだから」

私がそう言うと、夫は小さく舌打ちをした。

「だから、名義を変えるだけだって言ってるだろ。住むのは今まで通り、お前なんだから」

「名義を変えるってことは、私のものじゃなくなるってことでしょう」

「頭固いなあ。家族なんだから、誰の名義でも同じだろ」

義母が、そこで初めて口を開いた。

「私もね、こんな話、したくなかったの。でも、このままだと本当に迷惑をかけてしまうから」

声は小さくて、申し訳なさそうだった。でも、目は私を見ていなかった。テーブルの上の書類を見ていた。

「迷惑って、誰に」

私が聞くと、義母は答えなかった。代わりに夫が「俺にだよ」と言った。

「母さんの借金が払えなくなったら、連帯保証人の俺に全部くる。そうなったら、この家だって危ないんだぞ」

この家、というのは、私たちが住んでいる賃貸マンションのことだ。結婚して十五年、ずっと賃貸だった。私が相続したマンションは、都内から少し離れた場所にあって、今は人に貸している。その家賃収入が、私のパート代と合わせて、家計の助けになっていた。

「それなら、なおさら私のマンションは関係ないじゃない。あれは私の収入なんだから」

「だから、その収入ごと母さんに移せば、差し押さえの対象から外せるんだよ」

夫は、いかにも合理的だという顔で言った。私は、この人と本当に夫婦だったんだろうかと思った。

「断る」

私がはっきり言うと、夫はテーブルを軽く叩いた。

「お前、家族の危機だってわかってるのか。離婚も考えてるからな」

その言葉に、義母が「やめなさい」と夫の腕に手を置いた。でも、夫は振り払うようにして立ち上がった。

「とにかく、今週中に返事しろ。印鑑証明も取っておけよ」

それだけ言って、夫は寝室に行ってしまった。義母はしばらく黙っていたが、やがて「ごめんね」とだけ言って、帰っていった。

一人になったリビングで、私は書類をもう一度読んだ。そこには、私の名前と、母の名前が並んでいた。母が二十五年ローンを組んで買ったマンション。私が社会人になった年に、母は「これはあなたのものだから」と言って、名義を私に変えてくれた。その三年後に母は亡くなった。

翌日から、夫は口をきかなくなった。夕飯は一緒に食べたが、テレビの音だけが部屋に流れていた。私は私で、パートから帰ると、自分の部屋で過ごすことが増えた。

三日後、義母からLINEが来た。

「この間はごめんなさい。でも、あの子も追い詰められてるの。どうか話だけでも聞いてあげて」

既読をつけたまま、返事はしなかった。

週末、夫がまた切り出した。

「考えたか」

「考えたけど、やっぱりできない」

「なんでだよ。母さんだって、お前に悪いと思ってるんだぞ。それでも頭を下げて頼んでるんだ」

「お義母さんが悪いとは思ってない。でも、あのマンションは私のものなの。母が私に残してくれた、たった一つのものなの」

夫は深いため息をついた。

「そうやって、いつまでも母親の話ばかりしてるから、うちの母さんともうまくいかないんだよ」

その言葉は、思っていたより深く刺さった。でも、だからといって、判を押す気にはならなかった。

「離婚するなら、してもいいよ」

私が言うと、夫は一瞬、驚いた顔をした。それから、ふん、と鼻で笑った。

「上等だよ。でも、財産分与はちゃんとやってもらうからな」

「私のマンションは、相続財産だから分与の対象にならないはずよ」

「詳しいな」

「調べたから」

夫は黙って、スマホをいじり始めた。会話はそこで終わった。

それから一か月ほど、冷たい空気のまま生活が続いた。夫は時々、義母の家に泊まってくるようになった。私は、その方が気が楽だった。

十一月に入って、夫が「離婚届、もらってきた」と言った。テーブルの上に、薄い紙が一枚置かれた。

「お前が判を押さないなら、これにサインしてくれ」

私は、その紙を手に取った。夫の署名は、もうしてあった。

「わかった」

「慰謝料はなし。財産分与もなし。お互い、自分のものは自分で持つ。それでいいな」

「いいわよ」

「引っ越しは、今月中に頼む」

「あなたが?」

「お前がだよ。ここは俺が借りてるんだから」

そうだった。契約者は夫だった。私は、自分の荷物をまとめて、相続したマンションに戻ることになる。借りている人には、事情を話して出てもらうしかなかった。

十二月の初め、引っ越しの日は雨だった。夫は朝から出かけていて、いなかった。私は、十五年の間に増えた荷物を、一人で段ボールに詰めた。義母からは、前日に「本当にごめんなさい」とだけLINEが来ていた。返事はしなかった。

新しい、といっても古いマンションに着いたのは、夕方だった。借りていた人が、きれいに掃除をしてくれていた。窓を開けると、冷たい空気が入ってきた。母が好きだった、北向きの小さなベランダ。洗濯物は乾きにくいけど、夏は涼しいから、と言っていたのを思い出した。

離婚届を出したのは、年が明けてからだった。夫は、最後まで義母の借金の話はしなかった。私も、聞かなかった。

今は、パートを掛け持ちしている。家賃収入がなくなった分、生活は前より苦しくなった。でも、自分のものだけは、自分の名前で持っている。それが、今の私には何より大事なことだった。

時々、夜中に目が覚めて、隣に誰もいないことに気づく。寂しいと思うこともある。でも、あの書類に判を押さなくてよかった、と思う気持ちの方が、少しだけ強い。