家を買うための貯金を夫が義兄に全部渡していた
朝、通帳を開いた瞬間、指先が冷たくなった。残高が、ありえない数字になっていた。何度も画面を閉じて、もう一度開いた。やっぱり同じ金額だった。最後に記帳したのは三日前で、そのときは確かに、あと少しで頭金に届くところまで来ていたのに。
台所からは、夫が昨夜の味噌汁を温め直す音が聞こえていた。子どもたちはもう学校へ出た後で、家の中は妙に静かだった。私は通帳を握りしめたまま、しばらく洗面所の前の廊下に立っていた。声を出そうとすると、喉の奥が引きつるような感じがした。
「ねえ、ちょっと」
やっと言った声は、自分でも驚くほど低かった。夫は「んー」と気のない返事をして、テレビのリモコンを探していた。私は通帳を夫の前に置いた。開いたページの数字を指で押さえたまま、何も言えなかった。
夫は一瞬だけ通帳に目を落として、それから「ああ」と言った。それだけだった。
「ああ、じゃないよ。これ、どういうこと」
「……兄貴が、どうしても金が必要で」
義兄だった。夫の三つ上の兄は、昔から仕事が長続きしなくて、奥さんにも逃げられて、今は実家の近くのアパートで一人暮らしをしている。借金があるらしいという話は、何年も前から薄々聞いていた。でも、まさかうちの貯金に手をつけるなんて。
「いくら渡したの」
「……全部」
私はその場にしゃがみ込んだ。涙も出なかった。ただ、床の冷たさだけがやけに現実的だった。
「お母さんに頼まれたんだ。このままだと兄貴が自己破産するしかないって。そうなったら、もう立ち直れないからって」
義母の顔が浮かんだ。いつも穏やかで、にこにこしていて、でも時々、夫にだけ見せる「お前がなんとかしなさい」という目。あの目を、私は知っていた。
「相談もなしに? 私に何も言わずに?」
「言ったら、反対するだろ」
「当たり前でしょ。あれは、家を買うためのお金だよ。あんたと私が、十年かけて貯めたお金だよ」
夫は黙って、テレビをつけた。朝の情報番組が、今日の天気は晴れです、と明るく言っていた。私はリモコンを奪って、テレビを消した。
「返してもらえるの? 義兄さんが、あの金額を」
夫は答えなかった。答えられないのだと思った。義兄に安定した収入がないことは、夫が一番よく知っている。返済のあてもなく、ただ「家族だから」という理由だけで、夫は全部を渡したのだ。
その日から、夫との会話は激減した。いや、私が話すのをやめた。夕飯は作った。洗濯もした。でも、夫の顔を見ることができなかった。見ると、通帳のあの数字が頭に浮かんで、吐きそうになった。
一週間後、義母から電話がかかってきた。
「この間は本当にありがとうね。お兄ちゃんも、あれでだいぶ落ち着いたから」
私は受話器を握りしめたまま、何も言えなかった。義母は「あなたにも迷惑かけてごめんね」と言った。でもその声には、悪いことをしたというよりも、これで一件落着、というような明るさがあった。
「あの、お金のことなんですけど」
私が言いかけると、義母は「ああ、それはまたゆっくり話そうね。今ちょっと、買い物に出るところで」と言って、電話を切った。
それから三ヶ月、何も進まなかった。義兄からは一度、LINEで「すまない」とだけ来た。夫は相変わらず、何も言わなかった。私は毎晩、子どもたちが寝た後で、一人で通帳を見た。残高は変わらなかった。
家を買う計画は、もう消えていた。正確には、私の中でだけ、まだ消えていなかった。頭金を貯め直すには、また何年もかかる。でもそれ以上に、夫が「自分の家族」と「私たちの家族」を分けて考えていることが、どうしても許せなかった。
ある夜、夫がめずらしく早く帰ってきた。私は夕飯の片付けをしながら、背中越しに言った。
「ねえ、離婚しよう」
夫は何か言いかけて、やめた。長い沈黙の後で、「本気か」とだけ聞いてきた。
「本気だよ。あんたは、お母さんとお兄ちゃんの言うことを聞く。これからもそうだよ。私と子どもたちは、ずっと二番目なんだよ」
「そんなことない」
「じゃあ、なんで相談しなかったの。なんで、あの通帳を勝手に持って行けたの」
夫は下を向いた。私は夫の横顔を見ながら、この人にはもう何を言っても届かないんだと思った。憎しみというより、諦めに近い感情だった。
翌月、私は子どもたちを連れて、実家の近くのアパートに引っ越した。母は何も聞かずに、段ボールを運ぶのを手伝ってくれた。父は「好きにしなさい」とだけ言った。
離婚届を出す日、夫は最後に「ごめん」と言った。私は「うん」とだけ答えた。それ以上、何か言う気力はなかった。
今は、スーパーの品出しのパートと、土曜日の事務の仕事をかけ持ちしている。子どもたちは、転校には慣れたと言っている。時々、元夫から養育費の振込がある。金額は、約束した通りに来ている。でも、あの通帳にあった金額が戻ってくることは、たぶん永遠にない。
夜、子どもたちが寝た後、一人でお茶を飲みながら、時々あの朝のことを思い出す。通帳を開いたときの、指先の冷たさ。あれは、裏切られたというより、自分がこの家の中でずっと「外の人」だったことを、突然突きつけられた感覚だった。
今でも、義母の声を思い出すと、胸の奥がざわつく。あの人は、私に謝ったわけじゃない。夫も、最後までわかっていなかったと思う。でも、もうそれでいい。あの家にいた頃より、今の方がずっと、夜は静かに眠れている。