義母に娘をけなされても、夫は見て見ぬふりだった
リビングの空気が、義母の一言で変わった。
「やっぱり、あんたの作る味噌汁は薄いわね。ダシの取り方、お母さんに教わらなかったの?」
菜箸を置く手が、一瞬止まった。食卓には、義母と義妹の美穂さんが並んで座っている。今日は月に一度の、夫の実家での夕食会。手土産に持って行った煮物は、すでに「味が濃い」と言われ、箸もつけられずに端へ寄せられていた。
「ごめんなさい。薄かったですか」
私はそう言って、まだ手をつけていない味噌汁の椀を見つめた。隣で長女の結衣が、小さく息を吐くのが聞こえる。小学五年生の結衣は、もう空気を読む。下を向いたまま、箸で白いご飯を口に運んでいた。隣に座る小学二年生の息子、湊人は、何もわかっていない顔で唐揚げを頬張っている。
「薄いっていうか、なんか、こう、物足りないのよね。出汁が効いてないっていうか。ねえ、美穂」
義母が義妹に振ると、美穂さんは困ったように笑った。
「うちは顆粒だしだから、あんまり人のこと言えないけど」
「あら、顆粒でもちゃんと作れば美味しいのよ。要は、基本ができてるかどうか」
義母はそう言って、私の顔をじっと見た。目が笑っていない。いつものことだ。結婚して十二年。この家に来るたび、私は何かしら言われる。料理、掃除、子どものしつけ、パートの仕事。どれを取っても、義母の基準には届かない。
「まあ、いいわ。今日はこれ、食べましょう」
義母が自分の作った肉じゃがを、夫の茶碗の横に置いた。夫は黙って箸を伸ばす。私の作った煮物には、最後まで手をつけなかった。
食後、結衣が食器を台所へ運ぼうと立ち上がったとき、義母が言った。
「結衣ちゃん、最近ちょっと太ったんじゃない? 女の子なんだから、気をつけないと」
結衣の動きが止まった。まだ十歳の子に、面と向かってそんなことを言う。私は背筋が冷たくなった。
「お義母さん、そういう言い方は……」
「何? 事実でしょ。この子、おやつばっかり食べてるんじゃないの。お母さんがちゃんと管理しないから」
結衣はうつむいたまま、食器を重ねている。耳が赤い。泣くのを我慢しているのがわかった。
「管理はしています。結衣は成長期ですし、これから身長も伸びます」
「あら、そう。でも、今のうちに気をつけないと、中学生になってから苦労するわよ。美穂のところの美咲は、あの子、全然太ってないでしょ。やっぱり、普段の食事から違うのよ」
美穂さんの娘、美咲ちゃんは今年中学一年生。確かに細い。でも、それを比べるのは違う。
「お義母さん、結衣に直接言うのはやめてください」
声が少し震えた。義母はふん、と鼻で笑う。
「何よ、心配して言ってるのに。ねえ、トメくんからも何か言ってやってよ」
義母が夫を見た。夫はテレビの方を向いたまま、気のない声で言った。
「……まあ、別にいいんじゃない」
その瞬間、結衣が食器をシンクに置いて、足早に廊下へ出て行った。小さな足音が遠ざかる。
「ほら、ああいう態度。親の顔が見てみたいわ」
義母が吐き捨てるように言った。
私は何も言えなかった。言えば言うほど、この人は喜ぶ。そう思うと、言葉が喉の奥で固まった。
帰りの車の中、結衣はずっと窓の外を向いていた。湊人はチャイルドシートで眠っている。夫はラジオをつけ、野球中継の結果を聞いている。
「ねえ、さっきのこと」
私は助手席から、夫の横顔を見た。
「何が」
「お義母さんが結衣に太ったって言ったこと。あれ、ひどくない? 結衣、すごく傷ついてる」
夫はしばらく黙って、ハンドルを切った。雨がぽつぽつとフロントガラスに当たり始める。
「別に、悪気はないんだよ。うちの母は昔からああいう言い方しかできない人だから」
「悪気があろうがなかろうが、言われた方は傷つくの。あなた、あの場で何も言わなかったでしょ」
「言ったって、母さんは余計に面倒になるだけだろ。聞き流すのが一番だよ」
「聞き流せるのはあなただけでしょ。結衣は子どもなんだよ。あの子がどれだけ我慢してるか、わかってる?」
夫は黙った。ワイパーが規則的に動く。後部座席から、結衣の鼻をすする音が聞こえた。
「私、もうあの家に行くの、限界かもしれない」
声が思ったより低く出た。
「大げさだな。月に一度だろ。それくらい、我慢できないのかよ」
「あなたが我慢してるのは、お義母さんの機嫌だけ。私は、私の作ったものを全部否定されて、子どものことまでけなされて。それで、あなたはいつも知らん顔」
「じゃあ、どうしろって言うんだよ。俺が母さんに何か言ったら、今度はお前が悪者にされるんだぞ。それでいいのか」
「私はもう、とっくに悪者だから。何を言われても、今さら」
夫は深いため息をついた。それから、ぼそりと言った。
「……お前も、いちいち真に受けすぎなんだよ」
助手席のシートが、急に冷たく感じた。私は窓の外を見た。雨が強くなっている。街灯の光が、濡れたアスファルトににじんでいた。
家に着くと、結衣はすぐに二階の自室へ上がった。湊人を抱えて布団に寝かせ、リビングに戻ると、夫はソファでスマホをいじっていた。
「結衣、大丈夫かな」
「そのうち忘れるよ。子どもなんてそんなもんだろ」
私は何か言おうとして、やめた。言っても無駄だ。この人には、きっと一生わからない。
翌朝、結衣は朝ごはんを残した。いつもならおかわりをするのに、トーストを半分だけかじって、牛乳を飲んで部屋に戻った。
「結衣、お腹すいてない?」
声をかけると、ドアの向こうから小さく「大丈夫」と返ってくる。
「学校、行きたくない?」
「……行く」
でも、靴を履くとき、結衣がぽつりと言った。
「ねえ、ママ。私、あの家に行くの、もうやだ」
玄関で、ランドセルを背負いながら、結衣は私の顔を見ずに言った。
「うん。わかった。ママも、もう行かないようにする」
「パパは?」
「パパには、ママから話しておく」
結衣はこっくり頷いて、外へ出て行った。雨は上がっていて、朝の光が濡れた道路に反射している。
私はその日、パートから帰ってから、夫にLINEを送った。
「今週末、話がしたい。子どもたちのことで」
既読はついた。返事は来なかった。
夜、夫が帰ってきて、リビングの椅子に座るなり言った。
「話って何」
「結衣が、もうお義母さんの家に行きたくないって。湊人も、この前、おばあちゃんに怒られてから、行くの嫌がってる」
「だからって、行かないわけにはいかないだろ。月に一度の家族の集まりだぞ」
「家族の集まりなら、どうして毎回あんなに嫌な思いをしなきゃいけないの。あなたの実家で、私はいつも部外者みたいに扱われて、結衣まで傷ついてる。それでも行く意味があるの?」
夫は腕を組んで、天井を見た。
「母さんだって、悪気があるわけじゃない。ただ、言い方がきついだけだ。それに、あの年になると、考え方を変えるのは難しいんだよ」
「だから、私たちが我慢しろって言うの。子どもにまで我慢させて、何になるの」
「じゃあ、お前はどうしたいんだよ。縁を切るのか」
「そこまでは言ってない。ただ、しばらく距離を置きたい。私と子どもたちは、行くのをやめる。あなたは好きにすればいい」
夫はしばらく黙って、それから小さく笑った。
「そんなことしたら、母さんが何て言うと思う。お前が行かないってなったら、今度は俺が責められるんだぞ」
「だから、あなたはいつも自分が責められないことしか考えないんだよ。私や結衣が何を言われても、見て見ぬふりして。それで、自分さえ安全ならいいの?」
「そういう言い方はないだろ」
夫の声が少し大きくなった。
「俺だって、母さんには昔から頭が上がらないんだよ。お前にはわからないだろ、ああいう親に育てられる気持ちなんて」
「わからないよ。でも、だからって、自分の子どもを守らなくていい理由にはならない。あなたは結衣の父親でしょ。あの子が泣いてるのに、何もしないの?」
夫は何か言いかけて、やめた。スマホを手に取り、無言で画面を触り始める。会話は終わった。
数日後、義母から電話がかかってきた。
「今月の集まり、あんたたち来るんでしょ。美穂がね、美咲の塾の話を聞きたいって言ってるから」
「すみません、今月は行けそうにありません。結衣の体調がすぐれなくて」
「体調? 風邪? それなら、あんただけでも来なさいよ。子どもはトメくんに任せて」
「いえ、私も、ちょっと……」
「何、あんた、私に会いたくないの?」
義母の声が急に尖った。心臓が早くなる。
「そういうわけでは……」
「じゃあ、来なさい。家族なんだから、集まるのが当たり前でしょ。あんたが来ないと、トメくんがかわいそうよ」
電話を切ったあと、手が震えていた。リビングで宿題をしていた結衣が、心配そうにこちらを見ている。
「ママ、おばあちゃんから?」
「うん。でも、大丈夫。今月は行かないから」
結衣はほっとしたように、小さく笑った。その顔を見て、私は決めた。
週末、夫に言った。
「私と子どもたちは、しばらく実家の近くに引っ越す。お義母さんとの距離を置くため」
夫は新聞を読む手を止めた。
「は? 何言ってるんだよ。引っ越すって、本気か」
「本気。今のままじゃ、私も結衣も壊れる。あなたが守ってくれないなら、自分たちで守るしかないから」
「お前、正気か。家のローンはどうするんだ。子どもの学校は」
「ローンは、私のパートだけじゃ払えないから、あなたにお願いするしかない。学校は、近くに公立がある。結衣も湊人も、転校は一度で済む」
夫は立ち上がって、私の肩を掴んだ。
「待てよ。勝手に決めるな。そんなこと、母さんが知ったら……」
「お義母さんのことばかり。あなた、最後までそうなんだね」
私は夫の手を振りほどいた。
「離婚するとは言ってない。ただ、距離を置きたいだけ。それも許されないの?」
夫は黙って、壁に背を向けた。長い沈黙のあと、小さく言った。
「……わかった。好きにしろ」
その言葉は、怒りというより、諦めに聞こえた。
引っ越しの準備をしながら、結衣が段ボールに本を詰めている。湊人は、引っ越しを遠足か何かだと思っていて、はしゃいでいる。
「ママ、パパは一緒に来ないの?」
結衣が、段ボールの上で手を止めて聞いた。
「パパは、お仕事があるから、しばらくここに残るよ。でも、週末に会えるから」
「……そっか」
結衣はそれ以上何も聞かなかった。でも、その横顔に、ほんの少しだけ安心の色が見えた気がした。
引っ越しの日、夫は玄関まで見送りに出てきた。湊人を抱き上げて、頭を撫でる。
「パパ、また来るからね」
湊人が言うと、夫は「ああ」とだけ言った。結衣は、夫の顔を見ずに車に乗り込んだ。
私は最後に、夫に言った。
「あなたが、お義母さんに何も言えない気持ちも、少しはわかる。でも、私は、あなたが何も言わなかったことの方を、ずっと忘れられないと思う」
夫は何も答えなかった。ただ、玄関のドアが閉まるまで、そこに立っていた。
新しい家は、古いけれど日当たりがいい。結衣と湊人は、近くの公園に走っていった。私は段ボールを開けながら、ふと、あの日の食卓を思い出していた。味噌汁の湯気、義母の笑わない目、夫の横顔。
全部、まだ、少し痛い。
でも、ここには、あの沈黙がない。それだけで、呼吸がしやすい気がした。