20年ぶりに届いた母からの請求書
区役所からの封筒を開けたのは、夕飯の支度を終えて、やっと座れたリビングの椅子の上だった。中身は一枚の通知書で、「介護保険施設利用料の未納について」という見出しが目に入った瞬間、指先が冷たくなった。
母の名前だった。見慣れた、でももう何年も口に出していない名前。請求額は四十七万三千円。未納が三か月分溜まっているという。
「何これ」
声に出して呟いて、すぐに後悔した。隣の部屋で宿題をしていた中三の息子が、ちらっとこっちを見た気配がしたから。
私は通知書をテーブルに置いて、深呼吸をした。四十八歳。パートで週四日、スーパーのレジを打っている。夫は物流会社の夜勤で、手取りは二十八万くらい。住宅ローンがあと十二年残っている。息子の塾代が月に二万八千円。そんな家計の中で、四十七万なんて金額は突然降ってくるには重すぎた。
翌日、区役所に電話をした。生活保護の窓口ではなく、高齢福祉課の担当者につないでもらうまでに二十分かかった。
「お母様の施設利用料について、ご連絡がつかず困っておりまして」
担当の女性の声は丁寧だった。でも、その丁寧さの奥に「なぜ家族が放置しているのか」という困惑が透けて見えた。
「母とは、もう二十年以上会っていません」
私はそう言った。電話の向こうで一瞬の沈黙があった。
「ご事情はあるかと思いますが、民法上、扶養義務がございますので」
民法。扶養義務。そういう言葉を、役所の人間はためらいなく使う。私が十八のときに家を出されたことも、そのあと一度も連絡がなかったことも、全部なかったことにして、ただ「娘」という立場だけを押し付けてくる。
「母は今、どちらの施設に」
「西区の特別養護老人ホームです。去年の秋に入所されました」
去年の秋。私は何も知らなかった。知らされてもいなかった。
電話を切ったあと、しばらくスマホを握ったまま動けなかった。リビングの窓から見える隣のアパートの壁が、やけに灰色に見えた。
その夜、夫に話すと、彼はしばらく黙ってから「払わなきゃいけないの」とだけ言った。
「たぶん、そうなると思う」
「四十七万て、結構きついよ」
「わかってる」
それ以上は何も言わなかった。夫は悪くない。彼は私の母に会ったこともない。結婚するときに「母とは縁が切れてる」とだけ伝えて、それで終わらせたのは私だ。
翌週、私は西区の施設に電話を入れた。面会の予約を取るためだ。電話口の職員は「お母様、お待ちしてますよ」と明るく言った。その言葉が、やけに遠く聞こえた。
土曜日の午後、電車を乗り継いで施設に行った。最寄り駅から歩いて十分。住宅街の奥にある四階建ての建物は、思ったより新しくて、入口に季節の花が植えてあった。
受付で名前を言うと、若い男性職員が三階のラウンジに案内してくれた。エレベーターの中で「最近はお加減も安定されてます」と説明された。私は黙ってうなずいた。
ラウンジの窓際のソファに、母は座っていた。車椅子ではなく、普通の椅子に。痩せていた。髪は白くなっていて、短く切られていた。私が覚えている母より、ずっと小さく見えた。
「お母さん」
声をかけると、母はゆっくりと顔を上げた。目が合った。でも、その目に何の感情も浮かばないように見えた。
「ああ、あんたか」
それだけだった。二十年ぶりの再会が、それだけだった。
私は向かいの椅子に座った。テーブルの上に置かれた紙コップのお茶が、湯気を立てていた。
「区役所から連絡が来たの。未納があるって」
母は窓の外を見ていた。中庭に植えられた木が、風で揺れていた。
「知らんよ、そんなの」
「知らんじゃないよ。払わないと、施設にいられなくなるかもしれないんでしょ」
「別に、どこでもいいわ」
その言い方が、昔と全然変わっていなくて、腹が立つというより、なんだか力が抜けた。
十八のときのことを思い出していた。高校を卒業した翌月、母は「あんたはもう大人やから、出て行き」と言った。理由はなかった。ただ、母は再婚する予定で、私が邪魔だったんだと思う。相手の男のことはよく知らない。母はそのあと、その男とも別れたらしいけど、私に連絡してくることは一度もなかった。
「とりあえず、未納分は私が払うから。今後の利用料も、引き落としの口座を変える手続きをする」
母は何も言わなかった。ただ、膝の上に置いた手を、ゆっくりと握ったり開いたりしていた。
「それで、もう来ないでいいから」
その言葉が、静かに落ちてきた。
「払うだけ払ったら、それで終わりにしよう。あんたも、そのほうが楽やろ」
私は何か言おうとして、やめた。言いたいことは山ほどあった。なんであのとき追い出したのか。なんで一度も連絡しなかったのか。なんで今、そんな言い方しかできないのか。でも、それを聞いたところで、母が変わるわけじゃないこともわかっていた。
「わかった。手続きが終わったら、もう来ない」
私は立ち上がった。母はまだ窓の外を見ていた。
「元気で」
そう言って、ラウンジを出た。後ろから声はかからなかった。
帰りの電車の中で、スマホのメモに「支払い予定日」と打ち込んだ。四十七万三千円。ボーナス月にまとめて払うか、分割にするか。夫と相談しなきゃいけない。でも、たぶん一括で払う。ローンを組むほどでもない。貯金を崩せば、なんとかならない額じゃない。
窓の外に、見慣れた街の景色が流れていた。スーパーの看板、マンションの群れ、踏切の音。何も変わらない日常がそこにあって、私はその中に戻っていく。
息子に、今日どこに行ってたのか聞かれたら、なんて言おう。区役所に用事があった、でいいか。それとも、おばあちゃんに会ってきた、と言うべきか。まだ決められない。
とりあえず、今日の夕飯は何にしよう。冷蔵庫に豚こまがあったはず。玉ねぎとピーマンもある。生姜焼きでいいか。
そういうことを考えながら、電車に揺られていた。